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Update 2009.12.27 |
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>>現存兵器 TOP |
アメリカ軍事関係博物館 |
@管理人が訪れたアメリカ合衆国の軍事関連博物館をご紹介。米本土には行ったことがないので、ハワイだけですが・・・。 |
■Bowfin Park ■アメリカ陸軍博物館(ハワイ) ■戦艦『ミズーリ』号博物館 |
潜水艦「ボーフィン」が保存・展示されているのは真珠湾の『Arizona Memorial』の向かいにある『Bowfin Park』。メインは潜水艦「ボーフィン」であるが、他にも潜水艦関係の兵器などが数点展示されている。いわば”潜水艦博物館”とも言える場所である。 |
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『Arizona Memorial』から少しだけ歩くと『Bowfin Park』がある。戦艦「ミズーリ」へ向かうシャトルバス乗り場近くにあり、セットで立ち寄るのも良い。門からは巨大なSLBM2基が見える。 |
以下、潜水艦「ボーフィン」以外の展示物について紹介。 |
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●SLBM(SUBMARINE LAUNCHED BALLISTIC MISSILE) |
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門から入ると目に入るのが巨大なSLBMが2基立っている。手前の先端が黒白塗装なのがポセイドンC3で、奥の尖った鉛筆のようなミサイルはポラリスA1。ともに核弾頭を搭載した弾道ミサイルである。 ■ポラリスA1ミサイル(UGM27A POLARIS) ポラリスミサイルは、アメリカで最初に開発・配備されたSLBM。ロッキード社で開発され、1960年(昭35年)7月に米海軍潜水艦からの初の発射実験が行われた。以後、初期の米海軍SSBN(弾道ミサイル原潜)の搭載兵器として運用された。 初期のA1型は固定燃料ロケット。全長8.7m、直径2.6m、射程距離約2200kmとなっており、核弾頭1基を搭載していた単弾道ミサイルであった。 ポラリスは、大型化して射程距離を延ばしたA2型、さらに複数再突入弾頭(MRV)化されたA3型へと発展。発展タイプのB3型はポセイドンC3ミサイルへと発展している。 ポラリスミサイルは、1972年(昭47年)頃から「ポセイドン」ミサイルへの置き換えが始まり、1980年 |
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代前半にはSLBM「トライデントU」に置き換えられて全機退役している。 ■ポセイドンC3(UGM73 POSEIDON) ポセイドンC3は米海軍で採用された2番目の潜水艦発射弾道ミサイル。ポラリスミサイルからの発展・改良型の弾道ミサイルであった。二段式固体燃料燃料ロケットとなっており、10〜14基の核弾頭(W68)を搭載することが出来た。 全長10.39m、直径1.88mで、射程距離は弾頭数で変わり、核弾頭10基搭載で5930km、14基搭載で4630kmとなっていた。 1971年(昭46年)3月から実戦配備され、1992年(平4年)9月まで配備されていた。1990年(平2年)から置き換えが始まり、1994年(平6年)をもって全基退役している。 |
●レギュラスミサイル(RGM6 REGULUS) |
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レギュラスミサイルはヴォード社が開発したアメリカ海軍最初の艦対地巡航ミサイル。1946年(昭21年)から開発が始まり、1951年(昭26年)5月に初飛行が成功。1954年(昭29年)から実戦配備された。 全長10.1m、重量4670kg、最大速度M1.1、射程範囲925kmという性能を持っており、発射後はラジオ指令誘導によりジェットエンジンにて飛行していた。レギュラスミサイルは核弾頭のみを搭載した戦略兵器であった。 レギュラスミサイルは水上艦艇と潜水艦の両方に搭載されていたが、1960年(昭35年)頃からは潜水艦のみが装備していた。しかし、潜水艦からの発射時には浮上する必要があること、飛行速度が低いなどの運用上の欠点があったため、SLBMのポラリスミサイルが配備されると急速に数を減らし、1964年(昭39年)には全基退役している。 |
●魚雷 |
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▲MARK14 | ▲MARK45 | ||
■MARK14 MARK14は、第二次世界大戦でのアメリカ海軍の主要魚雷として使用された。圧縮空気とアルコールを使用して蒸気を発生させて推進力を得てきた。蒸気を使用するため航跡がはっきりするという欠点があった。 直径21インチ、全長20.5フィート、重量3200ポンド、射程4500〜9000ヤード。 ■MARK45 1960年(昭35年)に開発、1963年(昭38年)から実戦配備された潜水艦用魚雷。普通の火薬を搭載した攻撃用魚雷ではなく、核弾頭を搭載した対潜水艦魚雷である。直径21インチ、全長18.5フィート、重量2400ポンド、射程8000〜20000ヤード。水深方式は電気推進式。 1972年(昭47年)にMARK48魚雷が開発・実戦配備され、順次置き換えられて全基退役した。 |
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*他にもMARK37とか数本(数種類)の魚雷が展示されてましたが、写真 撮影しておりません。m(_ _)m |
●潜水艦パーチー司令塔 |
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「ボーフィン」と同じくバラオ級潜水艦の一隻として就役した潜水艦「パーチー」(USS Parche SS384)の司令塔。内部を公開しており、バラオ級潜水艦司令室と殻を見ることが出来る。司令塔の側には使用されていた潜望鏡も展示されている。 ■潜水艦「パーチー」 1943年(昭18年)11月就役。太平洋戦線にて多数の日本艦船を撃沈。戦後の1946年(昭21年)にはビキニ環礁で行われた”クロスロード作戦”では標的艦となったが、無傷のまま生き残った。 放射能汚染物質除去、米本土に回航されて1946年12月に退役。1947年(昭22年)3月に予備役艦隊に配属されたが、1962年(昭37年)12月に実験潜水艦として現役復帰。7年後の1969年(昭44年)11月に退役となり除籍・売却された。司令塔と搭載砲など一部の設備・兵装が保存されている。 ちなみに一部保存されている「パーチー」は初代。2代目はスタージョン級原子力潜水艦の1隻に命名されたが、2004年(平16年)に退役している。 |
●回天 |
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日本帝国海軍が開発した特別攻撃兵器。1名もしくは2名で乗りこみ、そのまま敵艦船に体当たりするという兵器で、『人間魚雷』と呼ばれ、米海軍を始め連合国に恐れられた兵器の一つであった。「回天」は一型・二型・四型・一〇型の4種類が製作され、うち実戦参加して戦果を挙げたのは一型のみである。 実戦投入された戦争後期の頃は、連合国側の対潜水艦索敵能力・攻撃能力が飛躍的に発達していたため、接近しても発見されて撃沈されたり、母艦もろとも撃沈された例が多く、単独で突入して戦果を挙げた例は少ない。また目標に達せずに沈没したり、トラブルなどにより喪失した「回天」も相当数に上るとのこと。 展示されているのは四型。四型は開発中に終戦を迎え、研究のため接収された数隻のうちの1隻と思われる。 |
●その他展示品 |
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屋外には他にも数点展示されていた。時間の都合で全てを見ているわけではないので、写真撮影した分だけを掲載。 |
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■5インチ砲 潜水艦「パーチー」に搭載されていた25口径5インチ砲。売却・スクラップの際に取り外され、ボーフィンパークにて保存・展示されている。 ■潜水艦救助ポッド 事故などにより沈没した潜水艦から乗組員を救助するために開発された。海底に鎮座した潜水艦のハッチに接続させて内部に乗組員を収容して救助するというもの。 ■巡航ミサイル「トマホーク」(Tomahawk) アメリカ軍の巡航ミサイル。近年の紛争・戦争、ことに湾岸戦争(1991)での映像で世界的に有名になった。米空軍・海軍で使用されており、多数のバージョンが存在する。展示されているトマホークがどのタイプかは不明。 |
■Waterfront Memorial |
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第二次大戦中において撃沈・行方不明・未帰還となった米海軍潜水艦は52隻にのぼり、約3500名の乗組員が未帰還となってしまった。ボーフィンパーク内には、それら52隻の艦名・経歴・写真を記した石碑が並べられている。 |
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*撮影した写真がこれしかありませんでした。m(_ _)m 左奥は米海軍補給艦。右奥の遠方に「Arizona Memorial」と戦艦「ミズーリ」が見える。 |
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●MEMO |
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真珠湾の『Arizona Memorial』は、日本のハワイ観光ツアーには必ずと言っていいほど組み込まれており、訪れる日本人観光客は多いのですが、その隣にある『Bowfin Park』は意外と知られておりません。戦艦『ミズーリ』に向かうシャトルバス乗り場の向かいにあるんですけどね。最近は『Arizona Memorial』と『ミズーリ』をセットにした観光ツアーが多いようで、必ずと言って良いほど前を通るはずなんですが・・・。ツアーなんで仕方無いか。ツアーでない個人旅行でないと訪れるのは無理っぽいです。 さて『Bowfin Park』は潜水艦関係の兵器などが数点展示されている(アメリカ)潜水艦博物館。学童疎開船「對馬丸」を撃沈した潜水艦「Bowfin」を展示しています。「Bowfin」と海上自衛隊初の潜水艦「くろしお」(初代)はほぼ同じ型の潜水艦なので、海自潜水艦「くろしお」(初代)に乗っていると思えば気分が紛れるかも知れません。( ´∀`) ここには回天四型の実物など、ここでしか見ることが出来ない貴重な展示品があります。またParkからは真珠湾内部も見ることができるので、戦艦『ミズーリ』や出入港・停泊している米海軍艦艇も見ることができます。その筋の方にとっては訪れる価値がある場所かと思います。 入場は有料です。ちなみにチケット販売所には海上自衛隊員(日本の自衛官)は身分証を提示すれば無料だという掲示がありました。これが有料もしくは入場禁止になれば日米関係がそうとうヤバイ状況になったということですな。(なりそうな悪寒・・・) |
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【Bowfin Park訪問日】平成16年(2004年)5月15日 |
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【Bowfin Park 終わり】 |
アメリカ陸軍博物館(U.S. Army Museum)は、ハワイ・ワイキキのフォート・デ・ラッシー公園の中にある軍事関係の博物館。有名なワイキキビーチの隣にある。元々は1911年( 明治44年)に建設されたランドルフ砲台だった施設を博物館として改装・整備して開館した。 陸軍博物館だけあって、展示内容はアメリカ軍か関与した軍事的な歴史についてである。19世紀末のハワイ王国の軍隊に関する資料から始まり、第一次世界大戦、第二次世界大戦さらには朝鮮戦争やベトナム戦争に関する資料や装備品などの展示が行われている。 展示エリアの一角には、日系3世ながら米陸軍参謀総長まで上りつめたシンセキ(Eric Ken Shinseki:新関)陸軍大将のブースがあり、写真パネルなどで経歴や戦歴を説明。着用していた制服なども展示されている。 |
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展示物は屋内と屋外に分けられる。屋外には日本帝国陸軍の九十五式軽戦車、米陸軍のM24軽戦車、AH1S対戦車ヘリなどが展示されている。屋内には拳銃などが展示されており、太平洋戦争(大東亜戦争)において米軍が捕獲した日本軍の銃や旗、真珠湾攻撃の際に撃墜した航空機の部品などが展示されている。 |
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入場は無料。入口に募金箱があるので寄付するのもよろしいかと・・・。@管理人は撮影しまくっていたが、なんら注意されなかったので、展示品の撮影はOKと思われます。 |
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博物館内部。元はオアフ島要塞の一つであるランドルフ砲台だった建物なので、展示室も砲台の設備を転用している。コンクリートうちっぱなしの殺風景な館内 。窓というものがほとんどないので、内部はかなり暗い。撮影するのであればストロボが必要となる。 通路右側にはアメリカ陸軍の歴史や参加した戦いなどについての展示パネルがあり、左側にはいろいろな展示品があった。 @管理人はこれら展示品をいくつか撮影したが、多くが手ぶれかボケていた・・・。m(_ _)m |
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ランドルフ砲台の模型。主砲は14インチ(36cm)砲。装填時は砲台の奥まった場所に寝かしていたとか。元々は露天砲台だったのだが、真珠湾攻撃を機に分厚いコンクリート壁や天井で覆われたとのこと。 このような砲台が、オアフ島のあちこちに死角がないように配置されていた。これらは外洋からの艦船による攻撃に備えるもので、仮想敵であった日本海軍を想定していたそうな。真珠湾奇襲を計画した日本海軍は、これら砲台に関する情報を入手していたとされ、この情報を元にして航空攻撃などを立案したともいわれている。 |
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14インチ砲の砲弾。もちろん展示用のレプリカ。砲台下ではこのようにして砲弾を準備。砲台に移動させて装填・発射する。 来襲する日本艦艇を想定しているので、砲弾は徹甲弾だったとか。 |
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展示してあった写真パネル。ランドルフ砲台かどこからか撮影したとか。写真には『The Target』と書かれている。標的となっているのはアメリカの仮想敵国であった日本帝国海軍の艦艇。艦名が書いてあったが忘れてしまった・・・。 写真から判断すると、装甲巡洋艦『浅間』のように見える。ちなみに『浅間』は明治32年(1899年)に就役した明治時代の帝国海軍巡洋艦。最後は練習特務艦となり第二次大戦を生き延び、昭和22年(1947年)に解体されている。 |
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以下、撮影した展示物を紹介。(半分以上ピンぼけなんで使い物になりまへん。まともな写真のみ掲載 m(_ _)m ) |
●屋外展示品(博物館正面展示品) |
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■U.S. PREFABRICATED PILL BOX |
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直訳すれば”組み立てられたトーチカ(機関銃陣)”となる。要は工場で大量生産された鋼鉄製のトーチカということ。説明パネルによれば、構築された陣地にこのトーチカを設置して使用していたそうだ。 説明パネルを直訳する(by@管理人)と、『(1941年)12月7日以前、鋼鉄製のトーチカ(Pill Box)は、軍事施設・飛行場・(日本軍が)上陸する恐れのあるオアフ周辺の海岸に設置されていた。』とある。 内部に2名が入り、機関銃や小銃で武装して攻撃するというもので、パネルによれば『ある地点に設置して、拠点(基地)から(後部に)設けられた地下道(管)を通って2名の隊員 |
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が軽機関銃を持って回転塔に入る。』そうだ。 日本がコンクリート製のトーチカを構築していたのに対し、アメリカは鋼鉄製で大量生産したものを埋めていた。持ち運べてすぐに構築できるので理にかなっている設備 (装備)である。 |
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【注意】日本でいうトーチカはロシア語(tochka)由来なのだが、ぴったり当てはまる言葉が”トーチカ”しかないので、ここではトーチカと記載。 |
■九十五式軽戦車 |
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日本帝国陸軍の軽戦車。装甲が薄く、37mm主砲の威力が弱いという欠点があった。中支戦線での中国軍相手ではどうにか通用したが、近代的な装備を持った米英軍相手ではかなり苦戦している。 本来は対戦車戦に用いられる戦車ではないのだが、厚い装甲と強力な火砲を持った後継戦車の開発が遅れたのと、それらを外地へ輸送する手段がなかったため、最後は無理を承知で対戦車戦に投入され大きな損害を被っている。 なお、陸軍博物館に展示されている車輌は完全体ではなく、あちこちが欠 |
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落している他、細部の形状が違っている。詳細はこちら。 |
■M24軽戦車 |
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北アフリカ戦線における対ドイツ陸軍との戦車戦での教訓から開発された軽戦車。第二次大戦後半に実戦投入され、主にヨーロッパ戦線に投入された。 避弾経路を考慮した設計となったので、装甲はあまり厚くはない。主砲はB25用の対艦砲から流用した75mm主砲を搭載。副武装として12.7mm銃機関銃1基、7.62mm機銃2基を搭載していた。 自動社会社のキャデラックが主に開発・製造を担当したため、随所に自動車の製造ノウハウが生かされており、機動性が良く乗り心地の良い戦車とな |
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っている。しかし朝鮮戦争ではT34/85相手に苦戦を強いられ早々に退いた。 日本の陸上自衛隊にも供与され使用されている。詳細はこちら。 |
■M3 105mm榴弾砲(105mm Howitzer M3) |
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M3-105mm榴弾砲は、アメリカ軍が開発した軽量の榴弾砲で、1943年(昭18年)に完成し実戦配備された。 M3はM2A1-105mm榴弾砲の砲身を短くしたもので、M2A1と同じ砲弾と薬莢が使用できた。 M3は主にヨーロッパ戦線で使用され、西部戦線において空挺部隊の野戦砲兵連隊に配備されたほか、歩兵連隊の砲中隊にも配備され使用された。 1945年(昭20年)までに約2600門が製造された。 |
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【DATA】 口径:105mm/砲身長:1880mm 全長:3.94m/全幅:1.7m/重量:1130kg 仰俯角:−9〜+30度 左右旋回角:45度 発射速度:最大4発/分、連続発射で2発/分 射程距離:7600m |
■一式四十七粍速射砲 |
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日本帝国陸軍が開発した口径47mmの対戦車砲。昭和16年(1941年)に採用され、翌昭和17年(1942年)に制式化された。対戦車砲であるが、砲弾は榴弾と徹甲弾の2種類が用意された。 1000m離れた距離からであってもM3戦車の装甲を貫く性能を持っており、対戦車砲の主力となることが期待された。しかし前線に配備される頃にはM4戦車が配備されていたため、新たな装甲の厚い戦車に苦戦する。それでも徹底した偽装などにより隠れ、側面からの攻撃に徹するなどしてかなりの数のM4戦車を撃破している。詳しくはこちら。 |
■MONARCHY CANON |
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ハワイ王国が使用したカノン砲。1831年にハワイ王国によって、ホノルルにある死火山パンチボウルのクレータ内に築かれた要塞に配備された砲の一つ。ホノルル湾の防衛や礼砲として使用された。 この砲は1920年(大正9年)からホノルルのビショップミュージアムで展示されていたが、1988年(平成元年)にこの場所に移設し展示している。 以上、説明パネルの英文を訳してみました。口径とか詳しいデータは不明。
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●屋内展示品 |
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■Eric Ken Shinseki |
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ハワイ出身の日系3世のEric Ken Shinseki陸軍大将に関する展示品。経歴や戦歴などを写真パネルなどで紹介。着用していた制服なども展示されている。ハワイの日系社会にとっては英雄ということで、展示ブースが設けられているようだ。 Eric Ken Shinsekiは1942年(昭和17年)11月生まれ。祖父は広島県出身という日系移民の家庭出身であった。1965年(昭40年)に陸軍士官学校卒業。ベトナム戦争にも派遣され負傷している。その後は順調に出世。1997年(平成9年)には陸軍大将に昇進。1999年(平10年)6月に陸軍参謀総長という米陸軍制服組トップに上りつめた。 |
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2003年(平15年)6月に任期満了につき退役。オバマ政権下では退役軍人長官に起用されている。 |
■日本軍のサーベル、拳銃、軍票 |
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拳銃は帝国陸軍の制式拳銃である南部十四年式拳銃。陸海軍で使用された。大正14年(1925年)に制式拳銃として採用され、昭和20年(1945年)まで製造された。諸々の事情により、戦後しばらくの間、警察で使用されていた。 右のお札はすべて軍票。軍票とは、占領地域において物資調達やいろいろな支払いのために発行した日本軍が発行した疑似紙幣のこと。手形みたいなものだろうか? 一種類だけかと思っていたら、オランダ領東インド・マレー方面、ビルマ方面、オセアニア地域、フィリピンの5地域において発行されていた。また通貨単位も”円”ではなく、各地域で使用されていた通貨単位に合わせてある。 |
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サーベルは指揮官用のものらしい。それ以外は不明である。 |
■九十二式歩兵砲 |
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九十二式歩兵砲は昭和7年(1932年)に採用された歩兵砲。それまで別々の砲で撃っていた平射・曲射を一つの砲で撃てるようにすることを目的として開発された。歩兵大隊に2門ずつ配備されたので、『大隊砲』とも呼ばれた。 車輪は鋼鉄製となっており、馬一頭に牽かせての移動となった。分解すれば馬三頭か、兵士10名が担いで移動していた。車輪はサスペンションがなかったことから、自動車での牽引は不可能で、トラックの荷台に載せるかしないと車輌移動はできなかった。 陸軍歩兵大隊には必ずあった砲ということもあり、満州から中支、南方戦線まで幅広く 活躍した。詳しくはこちら。 |
■真珠湾攻撃時に撃墜された日本軍機の残骸 |
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1941年(昭16年)12月7日(米時間。日本だと12月8日)の日本軍による真珠湾攻撃 で、戦艦8隻が沈没(後6隻が復旧し戦列復帰)するなど、アメリカ海軍は大きな被害を被った。日本軍側にも被害があり、攻撃に参加した航空機のうち、29機が撃墜されるなどして未帰還となり、74機が損傷を受けている。日本側の戦死者は55名に及ぶ。 陸軍博物館内には、真珠湾攻撃時に撃墜された日本軍機の残骸や部品などが展示されている。 |
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▲撃墜された日本軍機の残骸。 |
▲九十九式艦上爆撃機の部品。九九艦爆は15機撃墜された。 |
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▲九十七式艦上攻撃機の尾翼の一部。 |
▲零戦の時計らしい。”時計の示す時間に注目”と書いてある。 |
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▲零戦の20mm機銃。真珠湾攻撃で撃墜された機体のものではないとか。 |
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■日本軍の陸戦兵器 |
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▲日の丸の他、捕獲された日本軍の機関銃・銃の数々。 |
▲『九七式陸用爆弾信管乙』が入っていた木箱。20個入っていたようだ。 |
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捕獲された日本陸軍の機関銃や銃、軍刀が、日の丸国旗と共にまとめて展示されている。九十二式重機関銃と三八歩兵銃、九九式歩兵銃などがある。(分かるのはそれぐらい・・・m(_ _)m ) 奥の日の丸には『武運長久』と書かれ、日の丸を中心にして名前が書かれていた。どこで捕獲されたのかは不明。 |
■アメリカ軍の陸戦兵器 |
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第二次大戦で使用された(?)アメリカ軍の陸戦兵器も展示されている。マシンガンやライフル、軽機関銃の他、対戦車バズーカ砲などを展示。日本の陸戦兵器と比べると近代的に見える。 (銃火器関係はほとんど知識がないので何がなんだかわかりません。m(_ _)m )
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■コーラ缶のブービートラップ |
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第二次大戦後、アメリカが参戦した大きな戦争は朝鮮戦争とベトナム戦争である。これらに関する資料も展示されており、ベトナム戦争関係の展示品もあった。 その中の一つがこれ。コカコーラの空き缶なのだが、内部に手榴弾が入っており、何も知らずに缶を取り上げると爆発するという仕組み。米兵が捨てたコーラ缶をベトナム側がうまく利用した。アメリカの象徴の一つである「コカコーラ」の缶で米兵が死傷する・・・。笑い話にもならないが、実際にこの手の”罠”は至る所にあったそうだ。
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■442連隊 |
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ハワイから多くの若者が志願したこともあり、陸軍博物館には日系アメリカ人のみで構成されたアメリカ陸軍部隊第442連隊に関するエリアが設けられている。日系人部隊は1943年(昭18年)1月に編成された。それ以前にも日系人部隊が存在しており、そこでの日系人将兵の成績は大変優秀であったことも一つの理由として日系人部隊の編成が行われた。 ハワイからは約2600名の日系アメリカ人の若者が志願。(米本土からは約800名) 部隊は独立戦闘可能な部隊として編成され、ヨーロッパ戦線に投入された。対イタリア軍・ドイツ軍との激闘を繰り返し、テキサス大隊の救出劇やダッハウ強制収容所の開放など活躍し、多くの勲章を授与することとなる。これら日系人部隊の功績は、『日系人』ということだけで隠されていたが、近年になって少しづつ明らかになっている。 なお、写真は撮影しておりません。m(_ _)m |
●屋外展示品(博物館屋上) |
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■AH1Sコブラ |
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アメリカが開発した攻撃ヘリコプター。日本の陸上自衛隊でも主力攻撃ヘリとして採用されている。機首に20mmM197ガドリング砲を装備し、スタブ・ウィングのパイロンにミニガンポット、ロケット弾ポット、TOW対戦車ミサイルなどを必要に応じて装備できる。 1965年(昭40年)に制式化され、1967年(昭42年)にベトナム戦争に実戦投入。以後、アメリカ陸軍の主力攻撃ヘリだったが、後継機種のAH64に置き換わって全機退役 している。アメリカ海兵隊ではAH1Zを運用中である。 |
■7インチ砲 |
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ランドルフ砲台に設置されていた副砲の7インチ(18cm)砲。展示されているのはこの砲だけで、他の副砲や14インチ砲は撤去されて残っていない。もともとこの場所に設置されていた砲なのか、展示のために設置されたのかは不明。 ランドフル砲台を始め、オワフ島にはいくつもの砲台が死角が無いように建設された。敵国(当時の脅威は日本)の軍隊(日本海軍ということになる)が来襲して上陸してくることを考えてのこと。この7インチ砲も海を向いており、有事の際には発砲していたことになる。 |
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ランドルフ砲台の話ではないのだが、他の場所では、真珠湾攻撃で沈没した戦艦『アリゾナ』の主砲を引き揚げて陸上砲台として再利用し、終戦頃には世界に類を見ない強大な要塞が完成してい る。しかし 建設に手間取り、砲台の試射が行われたのは終戦直前のことだったとか。日本海軍は壊滅状態だったのでオアフ島に来襲することはなく、敵に対して一度も射撃しないまま終戦を迎えてしまった。 対日戦終戦により、これら砲台の存在価値はなくなり、また時代は航空機とミサイル・核ミサイル時代へと移ったことから砲台は役目を終えて解体されている。 |
●MEMO |
アメリカ陸軍博物館(ハワイ)はワイキキビーチのすぐ隣、ワイキキのフォート・デ・ラッシー公園の中にあります。ワイキキビーチに行かれた方は多いでしょうが、その付近がかつて一大軍事施設だったことを知っている日本人は少ないでしょう。 博物館の存在は、その筋の方々以外にはほとんど知られていないようです。訪問したとき、日本人観光客は私らだけでした。まぁ、一般の日本人観光客はこんなところに来ませんわ・・・(^^;) 実は@管理人自身も存在は知らず、@嫁の買い物につき合わされて、ホテルからショッピングセンターに向かうバスから何気なく外を眺めていて存在に気が付いた次第。博物館前に展示してあるM24に気づき、その横の日本軍の戦車らしい車輌に気が付いたのがきっかけ。翌日、戦艦「ミズーリ」と「Bowfin Park」を観た帰りに立ち寄ったわけです。 多くの展示物を写真撮影したのですが、ほとんど手ぶれで使い物にならなかったのが残念です。機会があれば再訪したいのですが、おいそれと行ける場所じゃないので、いつになることやら・・・。他サイト・ブログによると、貴重なドイツ陸軍の制式拳銃も展示されているそうです。銃火器には疎いのでそんなのもあったのかも知れません。 散歩がてらにどぞ〜。 |
【アメリカ陸軍博物館訪問日】平成16年(2004年)5月15日 |
【アメリカ陸軍博物館 終わり】 |
アメリカ軍事関係博物館【終わり】 |
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