Update 2009.12.27

 

 

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■九五式軽戦車

 九五式軽戦車は、昭和10年(1935年)に制式化された帝国陸軍の軽戦車。昭和11年(1936年)〜昭和18年(1943年)の間に約2300両が生産され、満州・中支・ビルマを始め、フィリピンやグアム・サイパン島、さらには南方の島々にまで配備された。日本の代表的な軽戦車である。

●開発の経緯

 九十五式軽戦車は、”機動的な戦車”を欲した帝国陸軍の要請により、昭和8年(1933年)夏頃から三菱において開発が開始された。この頃にはすでに、”日本陸軍初の量産型国産戦車”の八十九式中戦車が実戦配備されていたが、最大速度が25k/hほどしかなかったことから機動性に劣ってしまい、トラックなどと共に行動するこのが困難となっていた。これが九十五式軽戦車が開発された主たる理由となった。

 九十五式軽戦車は、昭和9年(1934年)6月に試作車が完成。各地で各種試験が行われた。最大速度は43k/hを記録するなど、”軽”戦車としては良好な成績を残した。各種試験の結果、外形や兵装などの改修を行った後、昭和10年12月に九十五式軽戦車として制式化され量産された。

●評価の分かれた軽戦車

 速度の速い九十五式軽戦車は機動性で言えば十分な戦車であり、騎兵部隊からは高い評価を受けた。しかし装甲が最大12mmと大変薄く、戦車部隊からすれば「戦車としては使い物にならない代物」と酷評された。

 装甲が薄くなった理由は「戦車用の適度な大きさの高出力ディーゼルエンジンを開発できなかった」ため。要求された(速度を出せる)性能を満たす出力を出せるエンジンを作ったはいいが、かなり大きくなってしまい重量がかさんでしまった。そのため要求された重量(6トン以内)に総重量を抑えようとすれば、装甲を薄くするしか手が無かったためと言われる。(それでも最終的な総重量は約7.4トンになった。)

 九十五式軽戦車の主砲は九十四式37mm戦車砲。車体前部と砲塔後部に九十七式7.7mm機銃が各1基合計2基搭載された。37mm砲というのは、開発当時は世界的に見て標準的な兵装であったが、九十四式37mm砲は砲身が短いため発射速度が遅く、その分貫通力や威力が劣っていた。

 装甲の薄さや主砲の非力さは、九十五式軽戦車に限らず日本の戦車全般において弱点となった。その弱点というか問題点は、本格的な戦闘が行われて表面化 する。

●ノモンハン事件

 昭和12年(1937年)7月7日、廬溝橋事件をきっかけとして支那事変(日華事変、日中戦争)が発生する。九十五式軽戦車は初期から運用され実戦投入されるが、本格的に(対戦車)戦闘を行ったのが昭和14年(1939年)5月に発生したノモンハン事件である。

 ノモンハン事件は、満州国とモンゴルの国境紛争が発端となり、実際はそれぞれの後ろ盾である日本帝国陸軍(関東軍)とソ連軍との間で起こった紛争である。時期的に2回(第一次:5月、第二次:7〜9月)に分けられるが、九十五式軽戦車が参加したのは第二次ノモンハン事件であった。

 第二次ノモンハン事件では、35両の九十五式軽戦車が参加。(他に八十九式中戦車や九十七式中戦車など38両が参加)

ソ連陸軍はBT5、BT7戦車、T26軽戦車などが参加(他に装甲車が参加)し、戦闘を行った。これらソ連陸軍の戦車は、装甲が13〜20mmと九十五式軽戦車と同じような厚さの装甲であったため、至近距離から命中弾を当てれば九十五式軽戦車の37mm砲でも破壊することができた。

 初戦においては、九十五式軽戦車は機動力をもってしてソ軍戦車や装甲車を撃破するなどの戦果を挙げた。(ただこの時の作戦は戦車隊司令の戦術によるものが大きかった。) また歩兵による火炎瓶攻撃などの肉薄攻撃や37mm速射砲、実戦投入された中戦車の活躍により、ソ軍戦車を撃破していた。

 しかしソ軍が対策を講じてくるとそうはいかなくなる。戦車戦においては、ソ陸軍の戦車の主砲は45mm砲を搭載していたため、装甲の薄い九十五式軽戦車を始め参加した日本陸軍の戦車は撃破されてしまう。参加した車輌のうち約30両の戦車が撃破されるなどの損害を受け、参加してからわずか4日後に戦車部隊は引き揚げてしまった。

 数においても、日本軍側が投入した戦車が73両に対して、ソ軍側のそれは500両ほどと言われ、数においても圧倒的に不利な状況であった。戦車部隊が撤収した後は、もっぱら歩兵による肉弾攻撃と速射砲などによる攻撃によりソ軍戦車を撃破していったとのこと。結果的にノモンハン事件では、日本軍(関東軍)は敗北して9月に終結することになる。

●使い方を間違った軽戦車

 ノモンハン事件において、対戦車戦を意識しなかった日本戦車の欠点が現れたのだが、それらを改善することなく九十五式軽戦車は量産が続けられ、やがて日本は対英米戦に突入する。

 昭和16年(1941年)12月8日、マレー半島に上陸した日本陸軍は破竹の進撃で南下する。九十五式軽戦車は戦車隊の主力として参加。1000km以上の距離を走破したにもかかわらず、エンジンなどには何の不具合も起こらず、エンジンのタフさを証明した。(これが唯一の長所とも言える・・・) さてマレー作戦における戦闘であるが、イギリス軍が戦車部隊をほとんど配備していなかったこともあり、対戦車戦はほとんどなかった。九十五式軽戦車はイギリス軍のトラックや装甲車を撃破したりしながら進んだという。

 しかし昭和16年末時点でフィリピンのアメリカ陸軍やビルマのイギリス陸軍に配備されていたM3軽戦車相手での戦車戦では、九十五式軽戦車は装甲の薄さと主砲の非力さといった弱点が露見。装甲の分厚い(正面で51mm)M3軽戦車に命中弾を与えても弾き返され、逆にM3戦車が搭載していた37mm砲で撃破されてしまった。もともと対戦車戦を意識して作られた戦車ではないのだから当然の結果と言える・・・。昭和18年(1943年)以降、M4戦車が出てくると太刀打ちできなくなり、歩兵がバズーカ砲を持つようになると、歩兵にすら敗れるという状況になってしまった。

 本来なら早々に対戦車戦を意識した新型戦車を開発投入し、九十五式軽戦車などと交代すべきところであったが、新型戦車を開発し量産を開始した頃には、制海権も制空権も連合国側にあったため、フィリピンや南方に輸送することもできない状況になっていた。結果的に、九十五式軽戦車はそのまま主力戦車として第一線で活躍することになり(使わざるを得ない状況にあった)、被害ばかりが増えるという結果になってしまった。

●戦後の九十五式軽戦車

 終戦後、多くの九十五式軽戦車は廃棄されスクラップ処分などにされた。しかしまとまった数が残ったため、中国内戦時は中共軍が九十五式軽戦車で戦車部隊を編成したり、インドシナに再駐留してきたフランス軍も暫定的に使用するなど、戦後も使用され続けた。またタイ王国には戦前に40〜50両の九十五式軽戦車が輸出されて、戦後にかけて使用されている。

 現在はアメリカ・イギリス・ロシア・タイなどの博物館に保存・展示されているが、日本国内には1両も存在していない。(以前は嵐山美術館にあったが閉館したため現存していない) 他には太平洋の各島々に朽ち果てた残骸が残るぐらいである。

 なお、このページで紹介している九十五式軽戦車の写真は、ハワイのアメリカ陸軍博物館で保存展示されている九十五式軽戦車である。完全な車体ではなく、形状が違っているのと塗装が滅茶苦茶なのが残念・・・(´・ω・`) 平21年(2009)にはカラフルでさらに無茶苦茶な塗装となってしまったとか・・・

【DATA】

全長:4.3m

全幅:2.07m

全高:2.28m

重量:7.4t

速度:最大40k/h

兵装:九十四式37mm戦車砲×1/九十七式7.7mm車載機銃×2

機関:空冷直列6気筒ディーゼル(120馬力)

乗員:3名

■九十五式軽戦車(ハ号)【ハワイ・アメリカ陸軍博物館展示車輌】

 

 

 九十五式軽戦車を正面から見てみる。砲塔の右下に操縦席の窓があり、ほぼ真下に7.7mm機銃が配置されている。正面から見ると砲塔が車体中央から左に寄っているのが分かる。バランス的には中央線上に持ってくるのがいいのだろうけど、意図的にずらしているようだ。操縦席に近づきすぎて支障をきたしたためだろうか?理由がわかりまへん。

 また側面の装甲がバルジ(張り出し)状になっているのがよく分かる。試作車では直線だったのだが、それでは駄目だということでこういう形に修正されたとのこと。ちなみに装甲の厚さは9〜12mm、砲塔は外周でも12mmしかなかった。

▲右斜め前から見た九十五式軽戦車。完全な車体ではない。

▲左斜め前から見る。砲塔の位置が左よりなので違った印象を受ける。

▲左斜め後ろから。キャタピラカバーがないので箱形車体が目立つ。

▲右斜め後ろから。右側面には排気筒があるが、マフラー部分がない。

▲右側面。海軍陸戦隊で使用されたのか?日章旗が描かれている。

▲右斜め後ろ。全体が入るように撮影。側面装甲の張り出し具合が分かる。

 この九十五式軽戦車は、ハワイのアメリカ陸軍博物館前に展示されている。屋外展示ながら保存状態は良い。後部の7.7mm機銃やマフラー、右側面の排気孔、前後のキャタピラカバーがないので完全車体ではない。 前面も形態が違うので、破壊されていた車体を復元したものなのだろうか。

 陸軍戦車であるのだが、砲塔に海軍旗が描かれているので、海軍陸戦隊に供与された車体なのかもしれない。(塗装がいい加減なので、勝手に描いた可能性もある。) サイパン島やテニアン島などで捕獲された車体だろうか?

▲主砲の九十四式37mm戦車砲。下に前部7.7mm機銃がある。

▲本来なら丸い鉄板の所に後部7.7mm機銃がある。後部確認窓も見える。

▲右のキャタピラ。戦車のキャタピラ開発でも日本は遅れていたそうだ。

▲右キャタピラ後部。

 主砲は九十四式37mm戦車砲であるが、初速が遅いためかなり非力であった。対戦車戦を想定して設計されなかったためである。

 乗員は車長・操縦手・前方銃手の3名。このうち車長は操縦と前方銃の射撃以外のすべて、後方機銃射撃や主砲の装填・射撃、操縦指示などなどを行わなければならず、この小さく狭い砲塔内を前後に移動していたそうだ。内部はかなり狭く、ゴチャゴチャしていたはずなので、移動は大変だったろうと思われる。

 

 

 この九十五式軽戦車はハワイのアメリカ陸軍博物館で保存展示されている。隣にはM24軽戦車が展示されている。開発時期が8年ほど違うので単純に比較するのが無理な話なのだが、同じ軽戦車とは思えないほど九十五式軽戦車は小さい。戦車開発においては終戦まで”後身国”であった日本と、”先進国”であったアメリカの差を見せつけられているように思える。

【撮影日】平成16年(2004年)5月15日

【九十五式軽戦車 終わり】

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