Update 2009.12.27

 

 

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■戦艦ミズーリ(USS MISSOURI BB63)

●戦艦「ミズーリ」

 戦艦「ミズーリ」をミリタリファン的に説明すれば、”アイオワ級戦艦の3番艦で、アメリカ海軍が建造し就役させた最後の戦艦”ということになる。しかし世間一般的には、戦艦「ミズーリ」とは”昭和20年(1945)9月2日に、日本が降伏文書に署名した船(場所)”と認識されている。”太平洋戦争終戦”(大東亜戦争終戦:*1)の項目の記述に艦名が載っている歴史教科書も多く、名前(艦名)ぐらいは知っている方は多いのではなかろうか。

 日本にとっては『INSTRUMENT OF SURRENDER』(降伏文書)に署名した”屈辱的な場所(艦艇)”であり”終戦の象徴”(*2)の一つであるが、アメリカにとっては”対日戦勝利の象徴”となる。それゆえアメリカにおける知名度は他の同型艦以上に高い。

1971年5月にアメリカの国定歴史記念史跡に指定されたことからもそれが伺える。

●戦艦「ミズーリ」の艦歴

 詳しい話は専門書籍や他のミリタリファンの方々のサイトを参考にしてください。ここでは@管理人的にざっくりと説明。

1)就役

 戦艦「ミズーリ」は、アイオワ級戦艦の3番艦として1941年(昭和16年)1月に起工された。約3年後の1944年(昭19年)1月に進水し、1944年(昭19年)6月11日にアメリカ海軍の戦艦として就役した。日米英独仏伊など第二次大戦参戦国の海軍でも最後に就役した戦艦でもある。

 同型艦として、「アイオワ」(1番艦)、「ニュージャージー」(2番艦)、「ウィスコンシン」(4番艦)の3隻が建造・就役している。計画では6隻建造されることになっていたが、対日戦終戦により「イリノイ」(5番艦)、「ケンタッキー」(6番艦)は建造中止となった。ちなみに「ミズーリ」(3番艦)よりも「ウィスコンシン」(4番艦)の方が早く就役したため、「ミズーリ」が最後の戦艦となった。

2)対日戦

 就役した「ミズーリ」は訓練の後、パナマ運河経由で太平洋に回航され、1944年12月末には真珠湾に到着。作戦に従事するようになるのは、翌1945年(昭20年)1月からとなった。本来の戦艦の目的である”対水上艦艇戦”については、1945年時点で日本帝国海軍の連合艦隊がほぼ壊滅状態にあったため起こることはなく、「ミズーリ」は硫黄島攻略戦、沖縄攻略戦に参加。日本本土への攻撃支援や艦砲射撃などを行った。

 1945年8月15日停戦。8月末には東京湾に入る。「ミズーリ」は日本帝国の連合国に対する降伏文書調印式会場に指定され、9月2日、艦上において降伏文書調印式が行われた。

3)第二次大戦後

 対日戦終了後、アメリカ海軍が所有する戦艦のほとんどは1949年(昭24年)頃までに退役。第一次大戦前後に建造された

老朽艦などは相次いで解体され、その他の艦艇も予備役に編入された。アイオワ級も同じく予備役に編入されたが、ただ一隻「ミズーリ」だけは現役戦艦として任務に就くことになる。

 1950年(昭25年)6月、朝鮮戦争勃発後は日本周辺に展開。朝鮮半島への艦砲射撃などを行い地上軍を支援した。1953年(昭28年)7月朝鮮戦争停戦。その後、「ミズーリ」はアメリカ本土に回航され、1955年(昭30年)2月末に退役し予備役に編入された。

4)再就役と再退役

 このまま記念艦になるかと思われた「ミズーリ」であったが、1984年(昭57年)にレーガン政権下での『米海軍600隻艦隊構想』により再就役が決定され、1986年(昭61年)5月に最新設備を装備して現役戦艦として再就役する。

 1990年(平成2年)8月、イラクによるクウェート侵攻が起こる。翌1991年(平3年)1月17日、”クウェート解放”を名目とする

湾岸戦争が開始される。この戦争が「ミズーリ」にとって最後の実戦参加となった。「ミズーリ」は新たに装備された巡航ミサイルを発射し、イラク領内の軍施設に対して艦砲射撃を行った。同年2月末に湾岸戦争終結。

 1992年(平4年)3月末、「ミズーリ」は退役。高額な運用費用が問題となっていたこともあったが、建造後48年ほど経過しており、船体自体の老朽化が進んだことも理由の一つだろう。退役した「ミズーリ」は、その後紆余曲折を経てハワイ真珠湾において博物館として公開されることになり、本土からハワイに回航し整備の後、1999年(平11年)1月末に「ミズーリ号博物館」として公開され、現在に至っている。

 

●DATA

・排水量:基準排水量 48500t/満載排水量 53000t

・全長:270.4m

・全幅:32.98m

・最大船速:33ノット

・乗員:1851名

・兵装

1944年

1983年(再就役時)

50口径40.6cm砲×9

50口径40.6cm砲×9

38口径12.7cm砲×20

38口径12.7cm砲×12

56口径40mm対空砲×80

トマホークSLCM×32

70口径20mm対空砲×49 ハープーンSSM×16
  CIWS×4

*1:「太平洋戦争」という名称は、戦後の占領統治下におけるGHQの検閲によって押し付けられて定着した名称。それまでの日本側の公式名称は「大東亜

   戦争」となっている。@管理人は当時の日本の公称通りに「大東亜戦争」として記述しています。

*2:終戦とは言葉通り”戦争状態が終わった”ということ。当該国間において講和条約発効により初めて終戦となるわけで、それで言うと大東亜戦争(太平

   洋戦争)の終戦は、昭和26年(1951)9月8に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効した昭和27年(1952)4月28日になり、それまでは単なる”休

   戦状態”に過ぎず、”戦争状態”は続いていたことになる。国際法ではそういう解釈になるそうですが、近年の解釈は違うとか・・・。深く掘り下げるとキリ

   がないので、ここらで終わりまする。

■戦艦「ミズーリ」

 あめふらし@管理人がハワイに行ったのは平成16年(2004年)5月のこと。ハワイに行くのならば、何がなんでもと訪れたのが「ミズーリ」でした。ホテルからバスを乗り継いで「Arizona Memorial」へ移動。「Bowfin PARK」の回天四型を撮影してから、「ミズーリ」に向かっています。「アリゾナ」は時間の都合で訪れてまへん。

 以下、レポですが、なにぶんかなり以前のことなので、記憶があやふやになっている部分があるので、間違いなどはご容赦のほどを・・・。

●戦艦「ミズーリ」博物館

 1999年(平11年)1月末、戦艦「ミズーリ」はハワイ真珠湾において博物館(記念艦)として一般公開された。係留されている場所は『Arizona Memorial』のすぐ隣。

 『Arizona Memorial』の隣にある『BOWFIN PARK』でチケットを購入(大人16ドルぐらいだったかな?)し、向かいの駐車場に発着するシャトルバスに乗って移動する。係留・展示されている場所はアメリカ海軍施設地域内となるので、シャトルバスにはM16を片手に持った海兵隊員が同乗していた。たまたまか?途中で飛び降りた輩は容赦なく撃たれるということですな。(゚Д゚ ;)

 

 

 移動中のシャトルバスから撮影した(と思う)真珠湾の光景。左の白い建造物が『Arizona Memorial』。日本人が行くと片身の狭い思いをする場所で、また亜米利加人から白い目で見られる場所・・・。で、右に見える艦がこれから向かう戦艦「ミズーリ」。基地施設内なので写真撮影はNGだったように思うのだが・・・。MPに連行されなかったんで大丈夫だったんでしょう。( ´∀`)

 

 

 橋を渡って10分弱で到着。シャトルバスから降りて入口から「ミズーリ」に歩いて向かう。ご覧の通り、境目にはフェンスが設置されており、 勝手に敷地内に入ることはできない。詰所もあってものものしい雰囲気だが、係員は結構友好的であった。

 ここから「ミズーリ」まで300mぐらいあったように思うのでだが、ここから見てもこれだけの大きさ・・・。やっぱ戦艦はでかい。海上自衛隊の護衛艦とは排水量が一桁違うのも納得 ・・・。

 

 

 入口から入ってすぐの所にある記念碑。寄進者や寄贈者の名前が載っている。日本でもこういうのがあるが、デザインが欧米的。(当たり前か・・・) 旗は何の旗かは分かりまへん。左右にある主砲弾が気になって撮影したようにかすかに記憶・・・。

 

 

 入口から入ると真っ直ぐに「ミズーリ」に向かう。左右ではためいているのは合衆国の各州の旗。正面に見える集団は海軍兵士の一団。あとで後部甲板で宣誓式していたんで海軍士官の一団じゃないかと。

 真正面には「ミズーリ」の艦橋その他上部構造物が見える。副砲の12.7cm砲2基が目立つ。艦首よりの砲塔の上にあるのがファランクス(CIWS)。第二次大戦中に就役した戦艦なのに、最近の兵器を搭載していると何か違和感を感じる。再就役時にオリジナル部分の多くを撤去して近代兵器などを搭載したそうな。

●外観

 

 

 

 

 

「ミズーリ」を艦首から撮影。『63』は艦番号。

 

アイオワ級戦艦の全長は約270m。

パナマ運河通過を考慮しなければならないので全幅は約33mとなり、細長い形になっている。

ちなみに帝国海軍の戦艦「大和」は全長263m、全幅38m。

「大和」よりも約7m長い。

 

▲艦首。大型艦だと”菊の御紋”が欲しいところ・・・( ´∀`)

▲戦艦だけに実に大きい。艦にはタラップではなく、設置された橋で渡る。

▲上部構造物。副砲やCIWSが見える。砲身のない砲塔のようなのは射撃

  司令所。CIWSの斜め上のデッキが露天艦橋。

▲左舷の後部甲板、第3主砲付近から艦首方向を見る。煙突付近はこんな

 感じ。主砲の後ろにあるのが射撃司令所とヘリ発着の管制室。

▲左舷側を真横から見る。第1・第2煙突の間にもトマホーク発射基とCIWS

 がある。第2煙突の手前、副砲の上にはにハープーンがある。

▲艦橋右舷側の外壁にはいろんなマークや記章が描かれている。何がなん

 だか分かりません。m(_ _)m

●兵装(主砲と副砲)

 岸壁から上甲板に移動し、左舷甲板から船首に向かって移動。艦首から艦尾方向(艦橋方向)を見ると、3連装の主砲の大きさに圧倒される。海上自衛隊の76mm砲とは比較にな らない。ま、当時と現在とではコンセプトが全く違うから比較しようがないのだけれど・・・。( ´∀`)

 アイオワ級戦艦の主砲塔は40.6cm砲。40.6cm砲を3連装備えた主砲を3基(前に2基、後ろに1基)装備している。1門だけならそう迫力はないの だが、3門並んで×2で合計6門も並ぶといかにも”戦艦の主砲”という感じがする。

 左右舷側には副砲の12.7cm砲が片側に3基づつ計6基配備。就役時は左右5基づつの合計10基だったのだが、1983年(昭58年)の再就役時に減らされている。

 対水上艦艇戦闘が対艦ミサイル主体となった現代では、搭載砲での砲撃で敵艦船を攻撃することはまずないわけで、主砲はともかく副砲は必要ないのですべて撤去しても良かったのではなかろうかとも思ってしまう。再就役時には搭載している主砲・副砲を全て撤去し、大量の巡航ミサイルなどを搭載した「ミサイル艦」とする案もあったとか。ただ40.6cm砲の威力は凄いものがあるそうで、対陸上砲撃には非常に有効ということから現場(海軍)の猛反発を受けたとか。

 さらに第3砲塔を撤去して格納庫と飛行甲板を設けて、ヘリコプターやハリアーを搭載する計画もあったとか・・・。実現していれば、現代における航空戦艦となったわけですな。結局は費用がかかりすぎるので計画だけで終わ ってしまった。

 「ミズーリ」は湾岸戦争時においてイラク本土に向けて289発もの砲弾を撃ち込んでいる。空母艦載機や空軍の爆撃機、巡航ミサイルでの攻撃だと撃墜される恐れがあるため、制海権・制空権を確保していれば30km以上先の海上から攻撃する手段は有効 だろう。

▲左舷甲板から船首方向を撮影。艦幅が狭いので、少々狭く感じる。

 第1主砲から艦首までの距離が短く見える。

▲ブリッジから見た艦首。第1と第2主砲が見える。艦首の先にあるの

  が「Arizona Memorial」。やっぱり細長く見える。

▲岸壁から見た第二主砲改行1。艦橋などの上部構造物と比べても、その

 大きさがわかる。戦艦の主砲となるとやはり迫力がある。

▲主砲近くにあったプレート。”289”と数字は、湾岸戦争時にイラク本土に

 撃ち込んだ主砲弾の数だとか。

▲ほぼ真正面から。3連装の主砲×2で6門の40.6cm砲。

▲少し右舷寄りから。戦艦らしい堂々たる光景。

▲後部甲板の第3砲塔。1基だけでも迫力十分。

▲左舷配備の副砲。ゲートに対して真正面に向いている砲を上から撮影。

▲左舷の艦首寄りの副砲。

▲右舷の艦首寄りの副砲。

▲副砲の内部。入ることは出来ないが中をのぞける。

▲副砲内部は結構狭い。右端においてあるのが砲弾。

●兵装(再就役後の兵器)

 1986年(昭61年)の再就役時に、「ミズーリ」始めアイオワ級の4隻の戦艦には、時代に即した新しい兵器が追加装備された。アメリカ海軍艦船に標準装備されている対艦ミサイルのハープーン(SSM)4連装ランチャーが4基、ファランクス(CIWS)が4基、そして巡航ミサイルのトマホーク4連装ボックスランチャーが8基が搭載され、それらの管制システムや近代的な通信システムも搭載された。こららの追加兵器を配備するため、副砲が4基撤去されている。

 なお、後部甲板にあった水上偵察機の発射施設などは撤去されており、ヘリコプターの発着甲板になっている。ヘリ発着のための管制室が第3主砲後部に設けられている。 「ミズーリ」には固有のヘリコプターは搭載されておらず、したがって格納庫もない。ヘリコプターは発着するのみであった。さてさて、肝心の写真ですが、後部甲板で士官の宣誓式が行われており、立ち入ることが出来ず撮影しておりません。m(_ _)m

▲トマホーク巡航ミサイルの4連装ボックスランチャー。合計8基搭載。

▲左舷のハープーンのランチャー。奥に見るのはトマホーク。

▲R2D2ことCIWS。海上自衛隊の艦船でもお馴染み。

▲第3主砲前には無人偵察機PQ2パイオニアが展示されている。

●居住区

 構成の関係で前後して記載しているが、見学コース的には主砲を見てから艦内の居住区に入る。士官以上の個室が一般公開されており、現役時のまま残され ている。戦艦だけあって個室は結構広くて居住性は良さそう。下士官以下、一般兵卒用の4段ベットルームとは雲泥の差。やっぱ士官学校出とそうじゃないのとでは扱いも違うということ か・・・。

 中にある広い場所、おそらくは食堂だった場所には太平洋戦争(大東亜戦争)〜朝鮮戦争〜湾岸戦争に至る、「ミズーリ」が参加した主要な作戦の経過などが書かれたパネルや写真が展示されて いる。

▲右舷側の甲板。戦艦にしては狭いのでは?

▲個室はこんな感じ。尉官なのか佐官用なのかは不明。

▲袖章から判断すると、3本線に星一つなんで中佐の部屋のようだ。

 髑髏(しゃれこうべ)はもちろん作り物。軍医の部屋?

▲事務机や応接セットまであった。ここは将官の部屋か?

  お偉いサンの部屋なのは確か。

▲元食堂? 今までの活躍をパネルと写真で説明。当たり前ですが、すべて

 英語表記。なので何となくしか分からない。( ´∀`)

▲「ミズーリ」の模型。1944年就役時の姿でしょう。

 

▲後部の一般兵の寝床。4段ベット・・・。個室とはえらい違い。

 戦闘時は臨時医務室(病室)になるのでしょう。

▲記念艦でも自販機があるのがアメリカらしい。記念ということで、「ミズーリ」

 のミネラルウォータを購入。

●ブリッジ

 「ミズーリ」ではブリッジまで上がることができる。ブリッジに上がって意外に思ったのは狭いということ。戦艦なのでもっと広々としているのかと思っていた のだが、指令塔が真ん中にあるので狭くなった模様。ブリッジに上がってまず気になったのは操舵輪が見あたらないこと。どうやって船を動かしていたのかと思ったら、指令塔の中に操舵輪があった。

 指令塔とは戦闘時に使用される指揮所。戦闘時はブリッジに被弾しても司令や艦長以下幹部が負傷したり戦死しないよう、装甲の分厚い(440mmほどあるそうな)指令塔に入り指揮していたとか。艦を動かす操舵輪が指令塔の中にあるのも納得。平時もここで操舵していたことになるが、視界はかなり悪いかと・・・。指令通りに操舵していたんでしょうな。

 ブリッジの上にある露天艦橋(フライングブリッジ)にも出ることが出来る。晴れていると、ここからの眺めは大変気持ちが良い。

▲ブリッジ。中央の器械はジャイロコンパス。

▲艦長席。皆が座るのでボロボロ・・・。

▲指令塔内にあった伝声管。塔内は狭く視界悪すぎ。

▲露天艦橋の艦長席。ここにもジャイロコンパスがあった。

●特別攻撃隊と「ミズーリ」

 

大東亜戦争(太平洋戦争)の数ある写真の中でも、衝撃的な意味からも有名な写真が一枚ある。

 

 

 

 

アメリカ海軍の戦艦に、今まさに突入せんとする特別攻撃隊の爆装零戦。

 

 特別攻撃の代表的な写真の一枚として見た方も多いだろう。この爆装零戦が突入しようとしている戦艦こそが「ミズーリ」。昭和20年(1945年)4月11日午後2時43分、鹿児島県喜界島沖で作戦行動中の「ミズーリ」の右舷に、幾重にも張られた米軍の防空網、レーダーをかいくぐり低空で進入してきた2機の爆装零戦のうちの1機が突入した。(残る1機は対空砲火にて撃墜された。)

 この機がどこの所属機で誰が搭乗していたのかは終戦後も永らく不明のままであったが、ミズーリ記念館や可知晃氏の調査により、鹿屋基地から出撃した日本帝国海軍神風特別攻撃隊『第五建武隊』所属の石野節雄二等飛行兵曹(享年19)操縦の爆装零戦であることが判明している。(同時に突入した『第五建武隊』の石井謙吉二等飛行兵曹(享年22)操縦の可能性もあるが、編隊での位置から判断して石野二飛兵の可能性が高いとのこと)

 驚く事に、アメリカ海軍は特別攻撃隊による被害箇所の一部を修復せずに残したままにしている。戦艦「ミズーリ」の右舷側の船体にある凹みがそれ。1945年(昭20年)4月11日に、爆装零戦が突入したその場所を今も見ることができる。まともな日本人にとっては衝撃的な場所である。 散華された英霊に対し黙祷を捧げる。

▲船首側からみた凹み。この場所に零戦が突入してきた。

▲船尾側からみる。

 幸か不幸か、良かったのか残念だったのか、零戦に積んでいた500kg爆弾は不発弾であった。突入した零戦はバラバラに壊れ、付近一帯に零戦の破片が飛び散った。主翼の右翼は副砲上まで飛んで行き、漏れだした燃料に引火。付近一帯は火災となったが鎮火されている。操縦していた石野二飛兵(石井二飛兵の可能性もあり)は戦死。近くの40mm対空機銃から遺体の一部が発見されている。

 この時の「ミズーリ」艦長のウィリアム・キャラハン艦長は、この攻撃に深い感銘を受け、「崇高な志を持って祖国のために戦死した兵士に、敵も味方もない」として、星条旗に日の丸を描かせて遺体を包み、礼砲5発・全乗組員敬礼のもと、海軍式の水葬を行い霊を弔ったとのこと。

 「ミズーリ」に行かれる方、この場所では黙祷してください。合掌でもかまいません。戦後日本のため、我々のために命を捧げてくださった英霊なのですから・・・。

●忘れてはならない場所

 

大東亜戦争(太平洋戦争)終戦時の代表的な写真がある。

 

 

 

 

戦艦「ミズーリ」に到着した、日本帝国の使節団一行の写真。

日本帝国の敗北を象徴する写真として、あまりにも有名だ。

 

先頭の杖をついているのが重光葵外務大臣。

 

 

 

 

1945年(昭和20年)9月2日午前9時4分、

 

日本帝国政府全権代表として重光葵外務大臣が降伏文書に署名した。

現在に至る戦後の日本は全てここから始まった。

 

 

 

 

重光葵外務大臣が署名した場所は、『Shigemitu POINT』と命名され、

「ミズーリ」の甲板上のその場所に、記念プレートを埋め込んでいた。

 

未来永劫、この場所は『日本(帝国)が連合国に降伏した場所』となる。

『戦争に負ける』とはこういうこと・・・

 

日本人にとって忘れてはならない 、もう一つの場所である。

 

▲埋め込まれている記念プレート。曇っていてなんて書いているか見えない。

▲降伏調印式で飾られたペリー提督が使用した星条旗のレプリカがあった。

 降伏文書調印式を行うにあたり、アメリカ側は2枚の星条旗を用意していた。92年前の1853年(嘉永6年)にペリー提督が浦賀に来航した際に使用した星条旗 で、31州の星が記された旗。もう1枚は日米開戦時(1941年)にホワイトハウスに飾られていた星条旗。

 この2枚の星条旗を掲げることで、再び日本を屈服させたことを印象づけようとしたのだろう。戦勝国の余裕からか、日本がアメリカに戦争を挑んだ事を相当根に持っていたのか、何にせよ降伏した側には文句が言いようがない・・・。

 このうちペリー提督の星条旗は今も展示されているが、当然のことながらレプリカである。

 

 

 記念プレートの横には、『INSTRUMENT OF SURRENDER』(降伏文書)とその時の写真がガラスケースに入れられて展示されている。この降伏文書は複製品だろう。本物はワシントンの公文書館かホワイトハウスにあるのだろう。ちなみに土産物屋では降伏文書のコピー商品が売られている。

 中にある降伏文書を撮影。サイン欄は、上に日本側代表の2名のサインがあり、その下に連合国側代表のサインがあった。

写真左:上から日本帝国政府全権の重光葵外務大臣、大本営陸海軍部代表の参謀総長・梅津美治郎陸軍大将のサイン。

日本側のサイン記入時間は『0904』とある。すなわち昭和20年(1945年)9月2日午前9時4分をもって、大東亜戦争は休戦になったことになる。(国際法的には終戦はサンフランシスコ講和条約が発効してから)

写真右:連合国側代表のサイン。こちらは『0908』、午前9時8分記入。一番上がダグラス・マッカーサーのサイン。あとはアメリカ合衆国代表、中華民国代表、イギリス(連合王国)代表、いつの間にか連合国側にいるソ連代表、オーストラリア代表、カナダ代表、フランス代表、オランダ代表、ニュージーランド代表と続く。

■無効になりかけた降伏文書

 注意して見てもらいたいのが、連合国代表のサイン欄。上から5つ目、オーストラリア代表のサインの下に空白があり、その下にカナダ代表のサインがある。 妙な空白だ。

 これらサイン欄は下線の下に国名があり、各国代表は下線の上にサインをすることになっていた。ところがカナダ代表は、極度の緊張のためか、間違って一つ下の欄(フランス代表のサインする欄)にサインしてしまったのだ。その結果、フランス以下のサイン欄が一つづつずれて、ニュージーランド代表は欄外にサインする羽目になった。とんでもない失態である。

 重光は降伏文書の不備を指摘。このままでは日本に持ち帰っても通用しないと主張。式に同行した終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男氏が、対応した参謀長サザーランド中将に各国代表に再度記入することを要求した。しかし『各国代表は祝杯を上げている』という理由で要求は却下されてしまった。日本側が勝手に訂正するわけにもいかず、結局、サザーランド中将が国名を消して訂正しなおし、日本で言うところの訂正印に当たるイニシャルを記入してもらい、それでやっとこさ調印式が終わった。

 対応したサザーランド中将は、最初は”そちら(日本側で)訂正してくれ”と言っていたそうなのだが、日本側の理屈を理解したのか、岡崎氏の要求に対して嫌な顔一つせず訂正に応じてくれたという。訂正が終わって調印式が済んだのは午前9時30分頃であったという。降伏文書が全く効力のない、ただの紙切れになるところであった。

 そんな空欄のある降伏文書をそのまま訂正もせずに展示しているところがアメリカらしい。

【参考資料】岡崎勝男氏の回想録

●MEMO

 日本の降伏文書調印式が行われた戦艦を、ハワイの真珠湾、しかも真珠湾攻撃で撃沈された「アリゾナ」の隣で展示するとことがアメリカらしい・・・。

 日米が本格的に戦争状態に突入した1941年(昭和16年)12月8日に撃沈された戦艦「アリゾナ」と、戦争が休戦状態となった1945年(昭和20年)9月2日に降伏文書調印式が行われた戦艦「ミズーリ」。大東亜戦争の対米戦(アメリカで言うところの”太平洋戦争”)の最初と最後に係わる戦艦を並べて展示することで、『対日戦勝利』を内外に示すということですか・・・。「ミズーリ」に記念プレートがあることからも、アメリカがいかに「ミズーリ」を対日戦勝利の象徴として重んじているかが分かります。敗れた国には何も言うことはできまへん・・・(;´Д`)

 ちなみに当初の予定ではアイオワ級2番艦の戦艦「ニュージャージー」で調印式が開催されるはずでしたが、時の大統領トルーマンがミズーリ州出身ということで、3番艦の戦艦「ミズーリ」で開催されることになったとか。今頃は「ニュージャージー」が真珠湾で展示されていたのかもしれません。どっちにしろ、日本には口出しできないことですが・・・。

 ミリタリ的な興味本位や観光気分で戦艦「ミズーリ」を見に行っても、あら不思議、帰る頃には屈辱感に包まれて帰ることになります・・・。これが”戦争に負ける”ということですか・・・。こう思ったのは私だけですかね?(´・ω・`)

 

 あとで知ったことですが、別料金でガイド付きツアーがあり、それだと機関室や主砲内部も見ることができるそうです。全く知らなんだ。また訪れたいのですが、場所が場所だけに簡単に行けそうにありまへん。再訪しても再び屈辱感を味わうか・・・。

 「ミズーリ」を含めてアイオワ級戦艦の4艦はすべて保存されて記念館などとして公開されています。歴史上、最後に建造された戦艦群ということにもなり、貴重な産業遺産でもあるのです。見に行きたくても難しいです。

 我が日本とは言うと、『三笠』は日露戦争の武勲艦なので除外するとして、残念ながら日本帝国海軍の戦艦で現存している艦はありません。降伏時に残っていた戦艦は標的艦として沈没したか、解体されて姿を消しました。部分的に砲塔やらが残っている程度なのは悲しい限り。昭和18年(1943年)に謎の爆発で沈没した戦艦『陸奥』の各種部分が比較的多く残っているのが、せめてもの救いです。

 

 それはさておき、戦争中にこのクラスの戦艦を4隻一気に建造するのですから、アメリカの工業力は凄いものです。艦艇だけでも、同時並行で大量の正規空母や各種艦艇なんかも建造していたのですから・・・。工業力の面でも完全に負けていたのですわ・・・。分かっていたはずなんですけどね・・・。この話も掘り下げるときりがないのでここで終わりまする。(;´Д`)

 

 最後に・・・

 

爆装零戦で勇敢に戦艦「ミズーリ」に突入して散華された石野二等飛行兵曹と石井二等飛行兵曹に合掌。

 

【「ミズーリ」乗艦日】平成16年(2004年)5月15日

【戦艦ミズーリ 終わり】

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