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Update 2009.04.02 |
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回天 |
●回天誕生まで |
有人兵器の”体当たり”による敵艦攻撃の構想が出始めたのは、日本にとって戦局が悪化し始めた昭和18年(1943年)頃からだった。海軍(艦政本部)では生還の見込みのない有人兵器に対して消極的だったが、提唱者の黒木大尉と仁科中尉の熱意におされ開発を認めた。開発に当たっては”乗員を生還させるための脱出装置を付ける”という条件が付けられたという。 試作機(というか回天自体)は海軍が世界に誇る九三式酸素魚雷を使用することを前提に開発が開始。昭和19年(1944年)7月末には試作機が完成するが、脱出装置は未完成で装備されていなかった。また魚雷の推進機関を使用するため後進ができない、旋回半径が大きいこと、さらに潜航深度が最大80mしかないことなど問題が生じた。攻撃に際しては攻撃目標近くから発進する必要があり、目標近くまで輸送する母艦が攻撃される危険性があることも問題になった。 常識的に考えれば採用されるはずのない兵器であるのだが、試作機が完成するまでにも刻一刻と戦局は悪化。試作機の採用不採用を決める時期は、昭和19年5月に発動された「あ」号作戦の失敗により日本軍がマリアナ沖海戦で敗北した直後だった。同作戦では潜水艦も大量に撃沈されたこともあって、通常兵器での通常戦法での攻撃では戦果があがらないという考えが浸透し始め たのか、先の欠点についは黙殺した状態で同年8月に兵器としての採用が決まってしまった。 そして「○六(まるろく)」とよばれた試作兵器は制式化され、『天を回らし、戦局を逆転さる』という意味合いをこめて『回天』と命名された。 |
●回天の戦果 |
昭和19年(1944年)9月、山口県の瀬戸内海に浮かぶ大津島(山口県周南市)に実戦部隊が開隊。ただちに訓練が開始された。並行して行われていた回天搭載母艦となる潜水艦の改造が終わった同年10月以降は、母艦潜水艦からの発進を含めて訓練が開始された。母艦としては潜水艦の他、軽巡洋艦『北上』や駆逐艦、一等輸送艦が対象となり、改造工事の後に試験に供されているが、回天母艦としては実戦参加していない。 回天の生産数が次第に増え、訓練がある程度進んだ昭和19年10月下旬についに回天による攻撃命令が発せられる。この命令を受けて”玄作戦”(ウルシー環礁、パラオ・コッソル水道攻撃)が立案され、同年11月下旬に”菊水隊”による最初の攻撃が実施された。この最初の攻撃ではウルシー環礁に停泊していた給油艦『ミシシネワ』が回天によって撃沈されている。 この後、昭和20年(1945年)1月から同年8月までの間に、回天による攻撃は途中作戦中止も含めて9回実施される。最初の菊水隊の他に、金剛隊・千早隊・神武隊・多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・神州隊が結成され出撃していった。出撃した母艦潜水艦に搭載されていた回天は1艦あたり4〜6基。その全てが発進したわけではなく、発進できなかった回天も結構多い。発進していった回天 の正確な数は不明だが、作戦が開始された昭和19年11月下旬から終戦までの約9ヶ月の間に合計のべ148基の回天が出撃したという。 その戦果はというと、駆逐艦・輸送艦・揚陸艇・給油艦各1隻ずつの計4隻のみ。他に撃沈には至らず小破〜大破となった艦艇が10隻弱というものだった。実際の戦果は正確な確認などが出来なかったのと、母艦潜水艦から発射された魚雷による戦果もあるので正確には不明だという。ただ回天による攻撃が米海軍をパニックに陥れたのは間違いなく、 戦争末期〜終戦時に米海軍が最も恐れたのは回天による攻撃で、停戦に応じた日本海軍に対して回天による攻撃作戦を直ちに中止するよう求めたそうだ。 終戦頃は回天を搭載する大型潜水艦もなくなり、来るべき”本土決戦”に備えて陸上基地に回天を配備していた。しかし終戦により配備だけで終わった。終戦までに回天の訓練を受けた搭乗員は1375名。そのうち戦死された方は搭乗員や整備員他を含めると145名という。また回天の母艦となった潜水艦も8隻が撃沈されている。 |
●各型 |
回天の種類としては、一型・二型・四型・一〇型の4種が計画された。このうち実戦配備されて攻撃に参加したのは、九三式魚雷の機関部を流用して製造された一型だけ。高速化・大型化を狙った二型と四型は機関開発が遅れたため終戦までに量産されなかった。九二式電池魚雷を改造した簡易型といえる一〇型は、6隻ほど製作されたところで終戦となり、実戦には参加していない。 日本国内で完全な実物が現存しているのは一型と一〇型のみ。靖国神社(一型)と広島県呉市の呉海事博物館(一〇型)に各1隻づつある。(大津島の回天記念館前のはレプリカ) 他に@管理人が知っているところでは、米国ハワイの『BOWFIN PARK』に四型が展示されているだけである。 |
■回天一型 |
回天一型は九三式酸素魚雷の動力部をそのまま流用し、中央部に操縦装置(席)のある外筒と潜望鏡を取り付け、さらに頭部に約1.5トンの火薬を搭載した。1.5トンの火薬量は大型艦艇を撃沈できるほどの量であったという。動力部を九三式魚雷からそのままそっくり流用したため、艇尾部は魚雷のそのものとなっており、艇首〜中央部と艇尾部の直径(太さ)が異なっているのが一型の外見的特徴である。 動力が九三式酸素魚雷であるため航続距離は結構長い。速度によって燃費が変わるため、78000m(10kt)/43000m(20kt)/23000m(30kt)と、速度が上がるにつれて航続距離は短くなる。もともと魚雷は長時間水中にいることは考慮されておらず、回天一型の場合は水圧などでエンジン故障が起こり、使用不可能となることがたびたび起こったとのこと。 日本国内では靖国神社で一型の実物が展示されている。この一型は終戦後、米軍に調査・研究目的で接収された数隻のうちの一隻で、最終的にはアメリカ陸軍博物館で保管されていた。昭和54年(1979年)8月に日本に返還され、同年10月から靖国神社において保存・展示されている。
ただ残念なことに |
【回天一型Data】 全長 14.75m 直径 1.00m 排水量 8.3t 最高速力 30ノット 燃料 酸素と石油 軸馬力 550pps 乗員 1名 |
■回天二型・四型 |
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回天二型・四型は、船体の大型化・高速力化ならびに頭部炸薬量の増大による攻撃力強化を狙って作られたタイプ。大型化しているため九三式酸素魚雷の動力部では対応できないため、 新たなエンジンを開発して装備することとなった。しかし終戦までに試作的に数機(2〜6基と言われる)が生産されていたが、肝心の動力部の開発が難航したため量産されずに終わった。 なお、二型と四型の違いはエンジン燃料の違いだけで、外筒の寸法は同じである。(二型:過酸化水素水を使用/四型:酸素を使用。一型と同じ) 終戦時、生産工場などで埋められた船体があり、いくつかは発掘されて保存・展示されている。ただ日本国内で保存展示されているのは部分的な物だけで、完全な形で展示されている二型・四型はハワイ(米国)にある『BOWFIN PARK』の1基のみである。終戦時に調査・研究目的で接収された四型の1基であるが、ここに至るまでの経緯は不明。 ここに記載する写真は平成16年(2004年)5月にハワイを訪れた時に撮影した写真。(無断転載を禁じます。) |
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▲回天二・四型艇首。艇首部に約1.8トンの爆薬を搭載して突入する計画 だった。 |
▲艇尾部。艇首〜艇尾まで同じ直径なのが分かる。二・四型の外見的な 特徴。大きくなるのでスクリュープロペラも大きくなっている。 |
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▲正面から。直径は1.35m。 |
▲真後ろから。プロペラは6枚。そして十字形で舵が設けられている。 |
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▲右側面を艇尾→艇首方向で撮影。所々切り取られ中を見ることが出来る。 手前の部分はエンジン機関のあたり。 |
▲中央部に操縦室がある。上にあるのは上部ハッチ。ハッチの艇尾寄りに 潜望鏡が設けられているようだ。 |
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▲下部ハッチ。潜水艦に設けられた交通筒を経て入る場合に使用される。 一度閉まると外からでないと開かない。 |
▲操縦室付近。内部は内やら管やらハンドルやらでゴチャゴチャしていた。 二型と四型は2人乗りとのこと。 |
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【写真】平16年(2004年)5月15日撮影 |
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【回天二・四型Data】 全長 16.5m 直径 1.35m 排水量 18.17t 最高速力 40ノット 乗員 1〜2名 |
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ほとんど使用されず倉庫に山積みになっていた九二式電池魚雷を流用して製作されたのが回天一〇型。魚雷を中央で切断して操縦室を取り付け た。他に人力舵など最小限の改造で製造された。呉海軍工廠で数基(3基といわれている)の試作を行い、後は横須賀海軍工廠で量産が行われることになったが、終戦により数基の生産で終わった。試作を含めて6〜7基が生産されたらしいが、正確な生産基数は不明。 もとになった九二式電池魚雷の射程距離が短いことから一〇型も航続距離は短く、一型のように潜水艦などの母船からの出撃は出来ないため、陸上基地から出撃を前提として本土決戦用の兵器として生産されることになったという。生産が容易なことから戦争末期の3ヶ月で約500基の生産を目指していたとのこと。 |
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▲一〇型の安全深度は20m、速力は14ktであったという。 |
▲右舷斜め前から撮影。展示場所の関係で全体の撮影は困難だった。 |
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▲潜望鏡とハッチ蓋は戦後に取り付けられたもので、オリジナルにはないそ うだ。 |
▲艇首。炸薬量は約300kgで一型の1/5程度だ。
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【写真】平成20年(2008年)4月17日撮影 |
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一〇型は広島県呉市の『呉海事歴史科学館』(大和ミュージアム)にで展示されている。展示されている一〇型は、呉海軍工廠において試作された一〇型の1基で、戦後アメリカ軍に接収された。調査終了後の経過は不明だが、最終的には払い下げられたであろう一〇型を、ホノルルの中古車販売会社が購入して店先に展示していたを、昭和52年(1978年)に日本人の会社員が買い取った。その後は京都市内の料亭の庭に展示されていたが、『呉海事歴史科学館』に移管され現在に至っている。オリジナルの形態ではないのが少々残念だが、貴重な型だけに存在価値は大きい。 |
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【回天一〇型Data】 全長 9m 直径 0.7m 排水量 2.3t 最高速力 14ノット 乗員 1名 |