●海軍航空隊大和基地

 正式には『大和海軍航空隊大和基地』という名の海軍航空基地でした。通称は『柳本飛行場』。

 戦局が悪化し始めた1943年(昭18年)頃より、来るべき本土決戦に備えての航空基地として建設が開始されたそうです。

四方を山に囲まれた奈良盆地に建設された大規模な航空基地でした。

 計画では主滑走路を含めて4本の滑走路を持つ一大基地となるはずでしたが、完成を迎える前に終戦となりました。

 

>>2006.09.03 Update

 

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◆大和基地

 

◆初めて知った奈良の航空基地

 通称”柳本飛行場”の存在は(いろんな意味での)その手の人達の間では有名だそうですが、あめふらし@管理人は最近までその存在すら知らなかったのです。(;´∀`)  大阪府在住なので、奈良県のことには疎いということもありましたけどね。2005年末頃に『掩体壕』の資料をネットで探している最中に、偶然”柳本飛行場の掩体壕跡”というのがひっかかりました。それで基地の存在を知ったわけです。

 それまで関西にある旧軍航空基地といえば、伊丹(現:大阪空港)、大正(現:八尾飛行場)、泉佐野(消滅)、八日市(消滅)の4つぐらいを知っていただけです。他に大津と串本に海軍の水上機基地があったこと、三木(明石?)や鳴尾浜辺りにもあったと聞いています。

 調べてみるといくつかの遺構が残っていることを知り、本格的な農作業が始まる前の2006年(平18年)3月に現地を見てきました。

◆変遷

 大和海軍航空隊大和基地は、現在の奈良県天理市南西部にありました。現在のJR桜井線長柄駅と柳本駅の間と大和川(初瀬川)の間に挟まれた区域に主滑走路を含む施設があり、周辺の山々などに司令部や宿舎などが建設されたそうです。

 大東亜戦争(太平洋戦争)中期の1943年(昭18年)頃より建設が開始され、翌44年(昭19年)9月からは本格的な建設が開始されました。1945年(昭20年)に全長1500m、幅100m、舗装幅50mの主滑走路1本が完成。同年2月、鳥取県の美保飛行場(現:空自美保基地)にあった第二美穂航空隊から九三式中間練習機(通称”赤トンボ”)が移動してきたことで航空基地として機能することになりました。以後、終戦までに九三式中間練習機が約70機、零戦が約50機が移動しています。これらの多くは特別攻撃に用いるべく温存されていた機体でした。

 終戦後、一時期はアメリカ軍が駐留していましたが、いつ頃か(不明)に返還されます。その後、基地は廃止されて跡地は農地に戻されました。

◆今に残る基地施設跡

 右の航空撮影写真は1974年(昭49年)に撮影された写真です。天理市西長柄町にある木材団地が出来つつある頃です。

 この写真の範囲内に、主滑走路、誘導路跡、掩体壕跡、防空壕(戦闘指揮所?)、高射砲陣地跡、整備場跡などの施設跡が集まっています。航空隊本部跡や兵舎跡などの施設は、JR桜井線のさらに東側にあったそうです。

 写真左下、掩体壕跡@とAとある付近が基地施設の南西端となります。その脇にある放水路を追っていくと、ぐるりとある地域を囲んでいることがなんとなく分かります。この放水路と川で囲まれた地域内に滑走路がありました。滑走路は舗装と未舗装とがありましたが、雨水を流すための排水路が必要でした。放水路の多くは滑走路の排水を流すことを主目的

に建設されたそうです。

 また写真左端にある『し』の字型した放水路に沿って、飛行機誘導路があったそうです。ちなみに誘導路はほとんどが消失しており畑と化していました。わずかに『誘導路かな?』というモノがあるだけでした。

 それでは@管理人が見つけた基地施設跡を見ていきましょう。

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

滑走路跡

 

 写真@のどこに滑走路があったのかですが、写真撮影時で戦後29年経過しているにもかかわらず、ちゃんと滑走路跡が写っています。赤枠と白枠の重複部分辺りに斜めに走る道路があるのですが、それを軸にして斜めに傾いた長方形の区画があるのがお分かりでしょうか?それが主滑走路跡です。

 写真@の赤枠部分を拡大したのが右の写真Aです。分かりやすくするために滑走路跡の外形を赤線で示しました。第二・第三滑走路に挟まれた部分に防空壕(戦闘指揮所?)が2つ残っています。

 主滑走路から3方向に3本の滑走路が延びています。縮小した写真では分からないのですが、原寸大の写真では第二と第三滑走路の外形に沿って、排水路の遺構が写っています。それに沿って写真Aで赤線を引きました。第二・第三滑走路は未完成のまま終戦を迎えたので、すぐに田畑となり姿を消しました。わずかに排水路の遺構だけがそれを物語っています。

 写真Aには第四滑走路は写っていませんが、第四滑走路は終戦時に一部分だけ

が完成した状態でした。(結局は未完成) 第四滑走路跡は写真上では全く分かりません。

 写真@の白枠部分が写真Bです。はっきりと滑走路の外形が分かります。また滑走路脇には掩体壕があったのですが跡が残っているだけです。(後述)

 航空撮影写真のように上空から撮影した写真であれば滑走路跡は分かるのですが、実際に現地で地上から探すとなるとこれが大変困難でした。地上から見た限りでは、滑走路跡はさっぱり分かりません。ナスカ地上絵と同じですね。

 はっきりと跡として分かるのは滑走路の南東端部分だけでした。これ以外は田畑内にあるので勝手に立ち入ることができず、確認できていません。

 聞くところでは、地面を掘った場所では地表より30cmぐらい下にコンクリートの層が出てくるらしいです。さしあたって分かった部分だけを撮影してきました。

r51より少し南に入った所にある不自然な畦。

これが主滑走路南東端でしょうか?もとは水路だ

っとか。

南東端は水路でした。水路を渡る付近から北を

見ます。わかりずらいのですが、直線道路が延び

ています。

ここも滑走路跡。ポツポツと工場や倉庫が建ち始めています。右の水路は滑走路排水路が前身だ

そうです。

   

滑走路跡に建設された道路です。現地に行くと分

かりますが、ほんとに一直線になっています。

(北西→南東方向に撮影)

 

 

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

防空壕

 

 大和基地跡の象徴ともいうべき施設跡が防空壕です。戦後60年以上経過するにもかかわらず、田畑の中に2つも現存しています。この施設が何なのかはよく分かりません。基地地上員のための防空壕という話もあれば、戦闘機に指示をだすための戦闘指揮所だという話、通信設備を備えた電信室(壕)という話などなど、正体は不明です。何らかの軍施設に使われた壕であることは確かです。

 @管理人個人的には戦闘指揮所ではないかと思っていますが、ここでの通称は一般的に思いつく”防空壕”としておきます。

”戦闘指揮所”と書くと写真が文字だらけになるとうこともあるのですが・・・(;´∀`)

 写真@の青枠で囲まれた部分に防空壕があります。現在の天理市岸田町です。 青枠部分を拡大したのが写真Cです。写真中央付近を横切る川を挟んで対照的な位置に防空壕が写っています。防空壕の東側には2基の掩体壕跡がありました。

 防空壕は中央を流れる川を挟んで現存しています。説明上、川の南側にあるのを『防空壕(南)』、北側にあるのを『防空壕(北)』と記します。

 2つの防空壕の造りは基本的に同じようです。 カマボコ型の両端に出入り口を各2箇所(合計4箇所)を備えたような形をしています。戦争末期のコンクリ構造物としてはしっかりした造りでした。

 両防空壕とも田畑の中にあります。周辺は少しづつ住宅などが増え始めているようですが、防空壕周辺までには及んでいません。ここしばらくは安泰のようです。

【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

●防空壕(北)

>>DATA

 所在地:奈良県天理市岸田町

 訪問日:2006年3月5日

 北側から撮影した防空壕(北)の全体像です。田畑の中に残っています。3月ということでまだ何も植えられていないので良く分かります。

 コンクリート構造物の防空壕がそのまま剥き出しの状態になっています。完成当時は盛土などで擬装されていたはずなので、戦後になって盛土は削られたのでしょう。壕の天井にわずかに残っている土がその時の名残でしょうか。盛土がなくなっているので、壕表面の状態が良く分かるのですが、その分風雨に浸食されるので劣化が進むのではないかと心配です。現時点(2006年)では崩壊などの兆しはありません。

 長さは約20m。高さは2〜2.5mぐらいでしょうか。使用されているコンクリートは戦時中の特徴でもある、やたらと石の多いコンクリートとなっています。内部は見た限りでは比較的石の少ない頑丈な(?)コンクリのようです。鉄筋は恐らく入っているはずですが、(北)ではよく分かりません。

 畑の畦に少し入らせて頂いて近付きます。内部は農機具小屋に使われているようです。奥までは入ることが出来ません。出入り口は4箇所ありますが、北西・南西側と北東・南東側とでは形が違っています。北東・南東側の方が壁に厚みがありました。

 天井は一部コンクリが露出していますが、多くの部分は盛土の名残の土が残っています。そこに草木が生えています。また天井には2〜3本ほど煙突のようなモノが突き出ていました。空気を取り入れる通風口なのでしょう。

 コンクリが露出しているので、その分風雨にさらされて浸食が進んでいるようですが、今のところ大きなひび割れなどはなく、当分は安泰かと思われます。

川の土手から撮影した防空壕(北)。田畑の中に

残っていました。

北西側の出入り口。田畑の中に勝手に進入できないので、内部には入っていません。

北西端を撮影。対照的な位置に壕の出入り口が

設けられています。

南西側の出入り口から内部を撮影。農機具置き

場となっています。

防空壕表面。風雨と浸食で表面が剥がれたので

しょうか。戦時中のコンクリの特徴です。

こちらは南東側の出入り口。壁が分厚いです。

天井には申し訳程度に草木が茂っていました。

●防空壕(南)

>>DATA

 所在地:奈良県天理市岸田町

 訪問日:2006年3月5日

 左写真が防空壕(南)です。防空壕の南側にある道路から撮影しました。現地を訪れるとよく分かるのですが、田畑の中にある丘のような壕は、遠くから見るとまるで遺跡か古墳のように見えます。

 (北)と違って壕には盛土が残っており、夏場には草木が生い茂るようです。完成時はもっと盛土があって壕のコンクリ自体を見ることは出来なかったではないかと推察しています。完成から60年ほど経過しているので、その間に風雨などで流れ出したか、削られたりして今の姿になったのでしょう。

◆外見

 防空壕(南)は畦を歩いて近付くことが出来ました。近付いて見て行きます。南東の出入り口から右回りに回ってみました。

 壕は(北)と同じく石の多いコンクリートで出来ています。表面に厚さ10cmぐらいの土があり、そこに草木が生えています。木々は大きく成長しており、しっかりと根が生えて土が崩落するのを防止しているようです。南側の部分は盛土が崩れ落ちている面積が広く、1.5mほどコンクリが露出しています。そのため風雨にさらされやすくなっています。

 完成後60年を越え、なおかつ盛土もないためにとコンクリ自体が劣化するのか、南西部分には継ぎ目がずれている部分がありました。崩壊までには至っていませんが、ここからさらに浸食や崩壊が進む恐れがあります。ちなみに壕の壁(外殻)に当たる部分にはほとんど鉄筋が入っていません。露出している部分にだけ鉄骨が無かっただけかもしれませんが、強度的にはかなり脆弱のようです。こんな状態で盛土を盛ってよくぞ60年以上も耐えているものです。

 北東端に回り込みます。ここからは水路のU字ブロックを歩いて行きます。壕の北斜面に当たる部分は盛土がしっかりと残っています。草木が生い茂り、木々もしっかりと根を張っています。北側には盛土が崩れてコンクリが見えている場所はかなり少なくなっています。

少し近づき別アングルから撮影。知らない人が見

れば”古墳(遺跡)”と思うでしょう。

南側のコンクリ表面。盛土が崩れ落ちており露出

しています。

継ぎ目のずれている部分。驚いたことに鉄筋はあ

りまえん。大きな石も混ざっています。

北側に回ります。こちらは盛土の厚さも厚いよう

で、草木がしっかりと覆っています。

北東の出入り口。入口横の部分の盛土が少し崩

れ落ちています。

北側よりみた(南)。田畑の中にぽつんとある古墳

(遺跡)のようです。

◆内部(大部屋)

 話が前後しますが、壕内部は3つ(2つ?)の部屋に別れているようです。このうち南東よりの大きな部屋を『大部屋』、北西よりの小さな部屋を『小部屋』、その間にある部屋を『中部屋』として説明して行きます。

 防空壕(南)は内部に入ることが出来ました。入っていいのか迷いましたが、特に注意書きもなくまた進入禁止のロープなどもないので注意して入ります。

 南東出入り口はゴミなどで入りずらいため、北東出入り口から進入します。通路は幅約1m、身長約170cmの@管理人が中腰で進んでいったので、高さは1.5mぐらいです。通路にはビニールハウス用のパイプが散乱しています。農機器具倉庫代わりにでも使用されていたのでしょう。内部のコンクリ表面浸食が少なく、白っぽい色をした綺麗な(?)コンクリでした。材質(混ぜるコンクリの量)が他の部分とは違うのでしょうか?

 出入り口からすぐに大部屋入口に着きます。部屋の奥行きは大凡で15mぐらいで仕切壁があります。幅は10m弱ぐらいというところでしょうか。部屋の高さは2〜2.5mほどあり、部屋自体はカマボコ型をしています。床はコンクリ床だったと思いますが、流入した土砂などで覆われており確認できません。

 部屋自体は物置小屋として使われていたのか、錆びたロッカーのようなモノが置いてありました。他は木材やゴミが散乱しているだけです。内部に入ろうとしましたが、半分水没しているようなのでやめました。 

ゴミで埋もれた南東サイズ出入り口。ここからの

進入は断念します。

北東より進入。内部より南東出入り口を見ます。

ご覧の通りゴミやらなんやらで埋まっています。

通路の天井。外壁と色が違います。内部にある分

だけ浸食されないからでしょうか?

通路にはパイプが放置されています。その先に

大部屋入口があります。

大部屋の床。流れ込んだ土砂やゴミで埋もれてい

ます。床の状態は不明です。

大部屋内部。ゴミが散乱しています。その先は窓

ではなく小部屋入口です。間には中部屋が。

◆内部(小部屋)

 南西出入り口はゴミで埋もれていました。北西出入り口から入ります。こちらも高さや幅は北東と同じぐらいです。床には農作業で使われたビニール袋やゴミが散乱しています。倉庫というよりゴミ捨て場として利用されていたのでしょう。

 ほどなくして小部屋入口に着きます。高さ1.5m、幅1mほどの入口です。縁の部分は所々削られており内部が見えています。コンクリ内部には鉄筋ではなく木材が入っていました。鉄筋不足から木材が使われていたのです。コンクリートも大きな石が混ざっています。戦時中のコンクリの特徴です。内部の壁は浸食がほとんどないため、白っぽい色をしています。これも建設当時に近い状態でしょう。

 北西寄りには奥行き2m弱の小さな部屋がありました。小部屋と呼びます。内部にはゴミなどが散乱しています。無線室として利用される予定だったのでしょうか。その先にも部屋があるようです。先ほどの大部屋との間にあるなので中部屋と呼びますが、内部は水びたしになっているようで入ることが出来ません。どうなっているのかは不明です。この水、どこから入ってくるのでしょう?

 内部ですが、ひび割れや崩落はないようです。しばらくは安泰かと思われます。

ゴミで塞がれた南西出入り口。北西出入り口から

進入します。

北西の方がゴミが少なかったので入れました。

内部はゴミが散乱しています。

入口から撮影した小部屋。無線室にでも使用する

つもりだったのでしょうか?

 

小部屋入口付近は表面が削られていました。

コンクリ内部は鉄骨はわずかで、木材が使用され

ています。

道路近くの水路に置かれていたコンクリート塊。

大きな石が混ざっているコンクリです。壕の一部

だったのか、他のモノの一部だったのか不明。

 

>>大和基地(その2)