Update 2009.11.04

 

 

>>現存兵器 TOP

>>MILITARY PAGE TOP

>>HOME

コンクリート製曳航式油槽船

●建造までの経緯

 コンクリート製の船舶は、将来的な船舶建造用鋼材の不足を考え、旧海軍の艦政本部が計画した船舶。舞鶴工廠が中心となって昭和17年(1942)から計画・研究が開始され、昭和18年(1943)に合計5隻が建造されたのが無人の曳航式油槽船(バージ)であった。武智丸建造前に試作的な意味合いで建造されたもので、このコンクリート製油槽船で得られたノウハウを活用して「武智丸」が建造されている。

 無人の曳航式油槽船というのは、要は無人のタンカーで、原油を満載した無人油槽船を他の船(輸送船や護衛艦など)に曳航させようとしたもの。曳航していた船が沈没しても、別の船が曳航すれば日本本土に輸送できると考えたのだろうか?

 しかしこの方法はとても危険極まりない輸送方法で、曳航するとなると船の速度は極端に遅くなるため、格好の餌食になることは明らか。どの程度の距離を開けて曳航したのか分からないが、海流や波の関係で曳航する船自体があらぬ方向に引っ張られることもあり、外洋では甚だ危険この上ない輸送方法であった。

 コンクリート製油槽船が建造されたのと同じ時期に、鋼鉄製の無人油槽船も建造されたものの、前述のような理由から南方からの原油輸送に使用されることはなく(というよりも曳航式に問題があった)、結局は『資材の無駄』として建造そのものが中止されてしまった。完成していた油槽船は港における原油タンク(浮遊原油タンク?)として使用されていた。

●コンクリート製油槽船のその後

 「武智丸」同様、コンクリート製油槽船も終戦後は各地の港に放置されたままとなっていた。どの船がどこの港や入り江に放置されていたのか、まだその後の経緯はどうなったのかは残念ながら資料がなく不明。現存しているのは2隻だけで、残る3隻は廃棄されたのだろう。

 現存しているコンクリート製油槽船の1隻は、山口県下松市の笠戸湾内に座礁放置されたままとなっている。残る1隻は広島県呉市音戸町の音戸漁港に防波堤として現存している。

コンクリ製油槽船Data】

総積載量 1200t

全長   52m

全幅   5.8m

材料   コンクリート/鉄筋

◆音戸漁港のコンクリート製油槽船

 

 

 広島県呉市音戸町の音戸漁港には、コンクリート製油槽船が防波堤として現存している。コンクリート製の船ということで、「武智丸」同様、戦後復興期の第一次漁港整備計画の時期に防波堤として転用された。音戸漁港のコンクリート製油槽船は呉工廠近くに係留されていた船だとか。

 港にあった記念碑(記念碑の日付は昭和31年(1956)12月)によると、音戸漁港には防波堤はなく、台風などで大波が来ると大きな被害を被っていた。そこで昭和28年(1953)3月に広島県会議員桧山議員(名前は読みとれず)に懇願し、御尽力を得て防波堤を完成させた。「武智丸」同様、国有財産となっていたコンクリート製油槽船の払い下げを受け、現地に曳航して沈めて防波堤として整備したのだろう。

 音戸漁港のコンクリート製油槽船は、「武智丸」のように全てが残っているのではなく、船首から2/3の部分(それも右舷側のみ)が残っているだけとなっている。

 

 

 上写真で右側が船首。漁港近くの海岸から撮影したものだが、見えているのは船の右舷側ということになる。現地を訪れたのが夕方であったため、漁港は陰に入るために暗くなっている。やや逆光気味の写真のために分かりずらいが、右端に上に飛び出しているコンクリート部分が舳先になる。

 この写真では分かりずらいのだが、船首から後方に向かって膨らみがある。そこがオリジナル部分で、その上の部分や後方(船尾方向)は防波堤として整備された時かその後の改修工事で付け加えられた部分である。

 

 

 こちらは左舷側。県道沿いから撮影した写真。漁港の内側になるため、元油槽船の防波堤には漁船が係留されている。その向こう、対岸は本州となり、かつては呉海軍工廠があった一帯である。

 言われなければ船であることは分からない。言われて見て、写真左端の部分が船の舳先であることがなんとなく分かるぐらいだ。同行した方も、言われるまでこの防波堤が船であることは分からなかったという。

 

 

 防波堤を歩いてコンクリート製油槽船に近づく。ここまで来ると堤防が元は船であることが分かってくる。船の左舷側を見ているのだが、ちょうど干潮の時間帯であったため、舷側下の膨らんだ部分まで確認出来る。ヨットの向こう側に穴が開いているが、

海水を通すため設置時に開けられたものだろう。

 船首部分が急角度上に向かっているのが分かる。これは原油を積んだ油槽船は、船首の一部分を除いて水没した状態で曳航されるため。舷側についた海水の跡からすると、満潮時には沈んだ姿に近い状態が見られるのかも知れない。

▲ほぼ真横から船首左舷側を撮影。船首甲板が急角度なのが分かる。

 

▲船首には鋼板が付けられている。波切りのために設置されたようだ。これは

 同じコンクリ製の「武智丸」と同じ。

▲舳先の部分。先端部分のコンクリートは鋼板で覆われている。あとで覆った

 のか、鋼板にコンクリートを流し込んで固定したかは不明。

▲先端のTOP部分。薄い鋼板のように見える。コンクリートの色が違うところ

 はあとで補修した部分だろう。

▲船首から右舷後方を見る。船首付近から外側に向かって膨らみがついて

 いる。曳航式油槽船が丸味を帯びた船体であることが分かる。

▲船首から左舷後方を見る。当たり前だがこちらも丸味を帯びた膨らみがあ

 る。コンクリの一部剥がれて中の鉄筋が見ている。

▲右舷中央部付近。下の膨らみはオリジナル部分で油槽船船体の一部。

 左舷側には見られない。膨らみの上は防波堤として作られた。

▲左舷の階段状になっている部分から後部は係留設備が設けられており、

 オリジナル部分は失われている。

▲船首楼部分。船首から船尾方向を撮影。写真右側が左舷側となる。

 埋められている丸い部分は曳航のための設備跡か?

▲船尾から船首方向で撮影。船首楼の甲板は意外と狭い。

 

 

 

 船首から船尾方向を撮影。ヘルメットをかぶった人が立っている部分から後方が堤防として整備された部分。そこより前がオリジナル部分ということ。その写真左側、人が歩いている部分が堤防の壁(?)。壁の下というか基になる部分はオリジナル。一から作られた堤防ならば直線的になるはずなのだが、ここの堤防は船の端のように湾曲しているのが分かる。オリジナルの部分(外形)に沿って設けているのでそのようになるのだろう。

 戦時中のコンクリートを使用しているが船ということもあってか、掩体壕のように大きな石が混ざったコンクリートは使用していないようだ。

 

 

 「武智丸」同様、近代日本の造船史において特異的な船とも言えるコンクリート製油槽船の存在はあまり知られていないようだ。音戸漁港一帯には案内板などは一切なく、その由来を示すのはこの記念碑ぐらいしかない。

 建造されてから平成21年(2009)時点で約65年経過しているが、船体は一部補強や補修の跡が見られ、一部分が剥離していたりするが、曳航式油槽船の原型を留めている。産業遺産といて是非とも保存してもらいたいものである。

【取材日】平成21年(2009年)10月20日

【コンクリート製油槽船 終わり】

>>現存兵器(日本海軍)TOP

>>現存兵器 TOP

>>MILITARY PAGE TOP

>>HOME