Update 2009.04.02

 

 

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武智丸

●建造までの経緯

 「武智丸」は将来的な船舶建造用鋼材の不足を考えた旧海軍の艦政本部が建造を計画したコンクリート製の輸送船。昭和17年(1942年)から建造に関する研究が開始され、まずは昭和18年(1943年)〜昭和19年(1944年)にかけてコンクリ製の無人曳航式油槽船(バージ)を建造し、それから輸送船が建造されることになった。無人曳航式油槽船は5隻が建造されたが、運用方法や構造などで問題が生じたために建造中止となった。(*1)

 しかし油槽船の建造でノウハウを得たことから、続いてコンクリート製の輸送船が建造されることになった。コンクリ製輸送船はE型戦時標準貨物船に準じた船体とし、まずは4隻が建造されることになった。

 建造は兵庫県高砂市にあった塩田跡に建設された武智造船所のドッグにて行われた。昭和19年(1944年)6月に「第一武智丸」が就役。続けて 昭和20年(1945年)8月までに第二〜第四「武智丸」が就役した。船名は造船所にちなんで命名されたのだろう。建造に際して、軍に協力した建設会社社長の武智氏の名前からかも知れない。

 この第一・第二「武智丸」の成績が良かったことから、艦政本部はさらに25隻の(量産型)「武智丸」型コンクリ輸送船を建造することに決定したのだが、資材のコンクリートの不足と造船所側の消極的姿勢により建造開始が遅れている間に終戦となってしまい、4隻だけの建造で終わっている。

 「武智丸」は、第一が呉、第二が横須賀、第三が佐世保に配備される。(第四は不明) このうち「第一武智丸」は主に瀬戸内海において運用された 。またどの船か分からないが遙か遠く南方まで航海したとも言われている。戦争末期は米軍の投下した機雷のため、鋼鉄製の輸送船が瀬戸内海で触雷して被害を被っていたが、「武智丸」は触雷することもなく航行したという。

●武智丸のその後

 終戦時、「武智丸」は第一が呉、第二が大阪、第三が広島湾、第四が神戸にいた。最終的には瀬戸内に集結していたようだ。

このうち航行可能だったのは「第二武智丸」だけで、他の3隻は故障や座礁して放置されていたと言う。このうち第三と第四「武智丸」は終戦後もかなり長い間放置されていたそうだが、最終的には2隻とも解体されて姿を消している。残る第一と第二は数奇な運命を辿ることになった。

 広島県呉市の東に豊田郡安浦町(現:呉市安浦町)という町がある。瀬戸内に面した漁港町なのだが、終戦直後、漁港の安浦港には防波堤がなく、台風が来ると大きな被害が生じていた。そこで当時の漁業組合・菅田氏長が呉に放置されたままのコンクリート船の「第一武智丸」に目を付け、コンクリ船を沈めて防波堤にすることを発案。もう一隻「第二武智丸」が大阪にあることを知り、これら2隻の払い下げを願い出た。(廃棄されていたが国有財産となっていたそうだ。)

 2隻の払い下げが認められ、第一と第二「武智丸」は安浦漁港に移動。設置場所の海底をさらって深くした後、粗石沈床と置換砂を敷き、その上にコンクリ船を沈設。周りに捨て石を置いて船体を固定した。費用は当時のお金で八百万円であったという。これによって第一と第二「武智丸」は防波堤として第二のお役目に就くことになった。

 昭和48年(1973年)の第五次漁港整備計画で撤去されるという話も出たが、強度的にまだ保つと言う結論に達し、撤去されずに残った。その後、防波堤の位置まで漁港の一部が埋め立てられたが、元コンクリ船の防波堤はその姿を残し、今も現役防波堤としてがんばっている。

 

 

 国道185号線から見た安浦漁港の防波堤。よく見ると船の形をしている。写真左側(陸寄り)が「第一武智丸」、右側(沖寄り)が「第二武智丸」。両船とも艦尾で連結するような形で置かれている。

武智丸Data】

総トン数 800t

全長   60m

全幅   10m

材料   コンクリート/鉄筋

*1:無人曳航式油槽船は2隻が残存。1隻は広島県呉市音戸町の音戸漁港に防波堤として。もう1隻は山口県下松市笠戸島の海岸近くに沈没(座礁?)

   したまま放置されている。

◆第一武智丸

 

 

 陸側にあるのが「第一武智丸」。船首を陸側(東)、船尾を沖側(西)に向けている。上部構造物は何も残っておらず、船体だけとなっている。ご覧の通り、第一周辺にはいろいろと施設が建設されたため、国道上からは見えづらくなっている。

 「武智丸」上には通路が設けられており、漁港の駐車場から防波堤に歩いて行くことが出来る。

▲第一武智丸。船倉のハッチは2つあるが、船首寄りの部分は土砂で

 埋まっている。右舷にはテトラポットが置かれ護岸防波堤と化している。

▲第一武智丸船尾より船首を見る。船橋甲板跡。上部構造物を固定する

 ための金物があちこちに見える。

▲この付近に船橋があった。規則正しく釘があるところを見ると板張りだった

 と思われる。ちなみに第一の甲板下は水没しており中には入れない。

▲第一武智丸の船倉。後部のハッチから中を見るが、ご覧の通り水没して

 いる。ハッチ周辺の甲板はコンクリとなっている。

▲船首寄りのハッチは土砂で埋まっている。楼甲板下の船室も半分埋まっ

 ていた。長方形の枠はクレーンの支柱跡か?

▲第一武智丸船首楼甲板後縁には、主錨の鎖を通す溝が設けられていた。

 破損防止のため、鉄板でガードされている。鉄筋が見えている。

 第一武智丸は船倉の半分ぐらいが土砂で埋もれていた。何となく傾いているようにも見え、沈下が進んでいるのかも知れない。右舷側に積み上げられたテトラポットの下段が変色しているところを見ると、甲板が覆われるほど潮が満ちるのだろうか?

 状態はあまり良くないので、第一武智丸の甲板には降りない方が良いかもしれない。

◆第二武智丸

 

 

 沖側(西側)にあるのが「第二武智丸」。第一とは逆で、船尾を陸側(東)に、船首を沖側(西)に向けている。第二の方が舷側の形態が良く分かる。第一同様、上部構造物はない。武智丸はE型戦時標準貨物船を基準にして建造されているので、船体の形はE型に近いものなのだろう。船首や船尾が直線で構成されているのが分かる。

 右舷側に掲げられた看板には『水の守り神武智丸』『港内減速』と書かれている。

▲第二武智丸船首。船首は鉄板で覆われている。船首部コンクリートの腐

 食防止、船首構造の強化のため。よく見ると溶接してある。穴の所に主錨

 がくる。

▲船首から左舷方向を見る。戦時急造船らしく直線的な舷側を呈する。

 表面のコンクリが剥げて鉄筋がむき出しになっている。

 

▲船首から船尾を見る。船首楼甲板にある穴は錨の鎖を通すホースパイプと

 呼ばれる穴。後ろの溝の形態が第一とは違う。

▲鎖が通るため、コンクリの破損を防ぐ目的で鉄枠が設けられている。

 後ろの四角い鉄枠台座にはウィンチなどの機器があったのだろう。

▲船首楼甲板下には船室があった。内部は漁具置き場となっている。

 出入り口が不自然な形なのは広げられたためだろう。鉄筋が露出している。

▲丸い鉄枠がはめ込まれている。周囲に鉄筋が見えているのだが、

 何があったのかは不明。

▲船倉のハッチ。灰色のは柵で転落防止のために設置された模様。

 ハッチの間にはクレーンがあったとかで、支柱を固定する鉄枠や操作の

 ための配線跡などがあった。舷側にはブルワークがある。

▲船首寄りのハッチから船倉を見る。船底に肋骨のようにコンクリが並んで

 いる。数本のコンクリ製の柱が甲板を支える。船倉内には、手前と後ろの

 ハッチを分ける隔壁はない。

▲船尾寄りのハッチから船倉を見る。隔壁の後ろは機械室となっている。

 見えている細い支柱で甲板を支えている。

▲船橋下の区画へは出入り口が2つある。鉄筋が向きだしなので後日広げ

 たのだろう。丸い鉄枠は窓。

▲内部。細いコンクリ支柱が立ってる。屋根(甲板)がないので土砂が堆積

 して雑草が生えている。舷側に丸い窓がある。これだけ見ると建設途中で

 放棄されたビル内部のように見える。

▲船尾方向を見る。船尾にはかなり太い支柱がある。舷側に立ち並ぶ柱も

 直線的で、戦時標準船なので舷側は直線的(平面)に、船尾の形態も逆

 三角形となっている。

▲中央の開口部から船底を見る。機関室があった場所で、機器を固定する

 台座などが残っていた。

▲艦尾の楼甲板を見る。第一同様、多くの柱と釘がある。第二には今にも朽

 ち果てそうな木材が残っていた。

 大東亜戦争(太平洋戦争)時に建設された旧日本軍のコンクリート建造物、とくに戦争後半に建設された陸上施設のコンクリ建築物は、石の多い質の悪いコンクリが使用されいることが多い。しかしある程度の強度を必要とする船舶となるとそういうこともなく、質の良いコンクリートを使用しているようだ。それゆえ建造後60年以上経過しても必要な強度を有しているのだろう。

 コンクリート船「武智丸」は、日本の船舶史とコンクリート(技術)史上において、大変貴重な遺産であることは間違いない。できるなら何らかの永久保存をしてもらいたいものだ。

【取材日】平成20年(2008年)4月18日

【武智丸 終わり】

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