Update 2009.04.02

 

 

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特殊潜航艇『甲標的』

●『甲標的』誕生まで

 特殊潜航艇とは、艦隊決戦時に敵主力艦隊を奇襲攻撃することを目的に建造された小型潜航艇のこと。昭和7年(1932年)から試作が行われが、本格的に開発が開始されたのは昭和13年(1938年)になってから。その2年後の昭和15年(1940年)になって制式化された。帝国海軍にとって特殊潜行艇は機体の秘密兵器であったことから、その存在は秘匿にされた。名称も『甲標的』や『H金物』などと呼称されていた。

 特殊潜航艇は母艦から発進することを前提に開発された。後に航空母艦に改造されることになる水上機母艦『千歳』『千代田』の両艦は、この甲標的の母艦として建造されており、甲標的を12隻搭載することが出来た。

●『甲標的』の戦果

 甲標的は魚雷2本を装備しており、敵艦の近くまで近づいて魚雷を発射し帰還するという戦法が取られた。あくまでも洋上での攻撃を前提にしていたのだが、大東亜戦争(太平洋戦争)においてはもっぱら泊地攻撃に用いられた。

 初実戦となったのが昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃。この日、特殊潜航艇5隻が潜水艦によって運ばれ出撃。

航空隊の攻撃開始より先にハワイ真珠湾に潜入し攻撃を開始したと言われる。潜入した5隻の甲標的のうち、4隻は全て発見されて撃沈されている。最初の甲標的は航空隊による攻撃前の午前6時45分頃に米駆逐艦に発見されて砲撃を受け撃沈 。他の3隻も相次いで発見追跡され、攻撃により撃沈された。ただ1隻のみがジャイロコンパスの故障により座礁。いったん離礁に成功して母艦に戻る途中で再び座礁。今度は離礁困難となり艇を自爆している。脱出した搭乗員2名のうち1名は行方不明(自決した?)で、もう1名の酒巻少尉は意識不明の状態で海岸に漂着していたところを捕虜となった。酒巻少尉以外の9名の搭乗員が『九軍神』として奉られた。

 2回目の攻撃となったのはマダガスカル島とシドニー港に対する同時攻撃。まずは昭和17年(1942年)5月29日、マダガスカル島ディエゴワレス港に侵入した2隻の甲標的により、イギリス海軍の戦艦『ラミリーズ』と大型油槽船を攻撃し中大破させた。

この甲標的搭乗員はどちらも帰還していない。このうちのどちらかの搭乗員2名が陸上(マダガスカル島)に上陸したが、降伏勧告に応じず射殺されている。

 続いて昭和17年(1942年)5月31日にオーストラリアのシドニー港攻撃で、3隻の甲標的がシドニー港侵入を計ったが、侵入に成功して攻撃できたのは1隻のみで、他2隻は攻撃を受けたりして自爆している。シドニー港では、甲標的の攻撃によって宿泊船が撃沈されている。この宿泊船を撃沈(巡洋艦を狙ったが外れて宿泊船に命中した)して脱出に成功した甲標的は最終的には未帰還となっていたが、平成18年(2006年)11月末にシドニー湾港外に沈没しているのが発見されている。

 3回目の攻撃は、昭和17年(1942年)11月にガダルカナル島北岸でアメリカ海軍輸送艦と雑役艦を攻撃損傷させている。このときの搭乗員は攻撃後にガダルカナル島に上陸している。これら3回の攻撃はいずれも母艦となる潜水艦からの発進となった。

 甲標的は蓄電池により動力を得ていたが、最初の型(甲型)は母艦搭載を前提に開発されたため充電能力がなく行動に制限が加わり、また行動持続力に問題があるため昭和18年以降は泊地攻撃は中止された。その後、発電機を搭載した型(乙・丙型)が開発されると、丙型が主力となり沿岸防備用として、南方、フィリピン、沖縄、キスカ島などに配備された。これら基地配備艇は何隻か艦艇を撃沈しているらしいのだが、正確な戦果は不明となっている。昭和19年以降、これら地域における制空・制海権はアメリカ側に渡っていったので活動が制限されたと思われる。

●各型

 『甲標的』は3種類が製造された。

>>甲型

 母艦に帰還することを前提に開発されていたた、発電・充電能力がない最初の量産型。真珠湾攻撃やシドニー港、マダガスカル島への攻撃に用いられた。全52隻が建造。開戦時には20隻が就役していたという。

>>乙型

 甲型53号艇に発電機を取り付けて充電機能を持たせたタイプ。甲型から4隻が改造された。全長が1m伸び、乗員は3名となった。昭和17年に完成している。

>>丙型

 乙型の量産型で、85隻が建造された。戦争中期以降、基地隊の甲標的として活躍したのは主に丙型となる。

 

 あと『甲標的丁型』という特殊潜航艇がある。『蚊龍』と呼ばれる特殊潜航艇で、甲標的を大型化しエンジン機関を搭載した最小型の通常動力型潜水艦。ここで言う『甲標的』の発展型となるが、潜水艦となるので省略する。

【甲型Data】

全長   23.9m

全幅   1.85m

排水量  46t

最高速力 水中19ノット

乗員    2名

兵装   45cm魚雷発射管×2/魚雷×2

安全潜航深度 100m

【乙・丙型Data】

全長   24.9m

全幅   1.88m

排水量  50t

最高速力 水中18.5ノット

乗員    3名

兵装   45cm魚雷発射管×2/魚雷×2

安全潜航深度 100m

■甲標的 甲型

 

 

 写真は江田島の海上自衛隊第一術科学校内で保存・展示されている『甲標的』(甲型)。江田島の『甲標的』は、真珠湾攻撃に参加したうちの1隻で、昭和35年(1960年)6月13日にアメリカ海軍によって発見・引き揚げられた。1週間後の6月20日に海上自衛隊揚陸艦『しれとこ』に搭載され、7月20日に約20年ぶりに横須賀に帰国。7月28日には江田島に到着している。

▲『甲標的』右側面。艇首の部分は切断されていたが、返還後に復元され

  ている。

▲同じく左側面。

 

▲艇首。45cm魚雷発射管に2本の魚雷を搭載していたが、魚雷発射後に

  船体が浮き上がる欠点があった。防潜網を切るカッターが装備されている。

▲艇中央部の司令塔。潜望鏡がある。ハッチは開いた状態になっている。

 

▲艇尾。スクリュープロペラと舵(縦舵と横舵)。

▲『甲標的』に搭載されていた600馬力の電動機。

【写真】 平成20年(2008年)4月18日撮影

 特殊潜航艇『甲標的』について、”一度出撃したら帰還は望めない特攻兵器”というふうに解説している本やサイトがあるがそれは間違いである。『回天』とは違い、『甲標的』はあくまでも母艦への帰還を前提に開発された兵器である。

 『甲標的』は発見されやすく撃沈されることが多かった。また初期の甲型は発電機がなかったために母艦に帰還する前に力尽きることがあった。出撃した隊員も帰還できるとは考えておらず、最終的には艇を自爆したり自決している。それゆえ”帰還は望めない”というふうに思われても致し方ないかも知れない。

 母艦から発進攻撃した各作戦において、母艦となった各潜水艦は帰還を信じて危険を承知で収容ポイントで待機していたことからも、『甲標的』が帰還を前提にした兵器であったことは確かであろう。

【甲標的 終わり】

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