渡嘉敷島日記【前編】(1)

 

★『嵐を呼ぶ男』?

 2003年秋に仕事の関係で沖縄に行くことになっていたので、4月以降はいろいろと忙しい日々を過ごしていました。ZRXでの『瀬戸大橋&讃岐饂飩ツーリング』、KSRUでの『しまなみ海道&九州ツーリング』などのショートツーリング。それに8月末〜9月にかけての『東北&北海道ツーリング2003』などと、もうツーリングの予定がぎっしり。(^o^(○=(- -;)<シゴトハドウシタ?

一月ほどバイクに乗ることができないので、乗ることが出来る間に乗っておこうとしたわけですな。もちろん、本業の仕事もちゃんとこなしていましたよ・・・・・・・。(^^;)

 で、出発は9月11日(木)を予定しておりました。それに合わせて9月6日には北海道より帰阪し、KSRのバッテリーを外すなど長期不在に向けた準備を行っていました。(ツーリングに行く前に沖縄出張の準備は終わらせていました。) もう心は沖縄に飛んでいましたよ。たった一つのことを除いて・・・。

 

台風14号が(沖縄に)接近してるやん・・・

 

 なんで?『東北&北海道ツーリング』では台風が来なかったのに、なぜか沖縄出張する直前になって来るねん・・・。(;゚Д゚) 断っておきますが、召還してませんよ。私は。(;´∀`)

 9月10日頃、台風14号は宮古島に大きな被害をもたらした後に沖縄本島付近をかすめて通過。移動当日、飛行機は飛ぶようなので一安心と思っていたら、沖縄の会社(OP社)より連絡。

 「台風は過ぎ去ったのですが、台風の吹き返しの風で海が大荒れなんです。予定通り本島に来てもらっても、本島と離島を結ぶに行くフェリー・高速艇はあと3日ほどは全便欠航なので島に渡れません。来て頂いてもやることが何もないので出発を1週間延期します。」

 確かに。無駄な経費は払いたくないのはよく分かります。それは納得。

 しかし・・・

 「(仕事の)終了日は予定通りなので、期間は短縮します。」 Σ(゚Д゚;)マジッ!?

 終了日を1週間遅らせるのか思っていたら、予定通りですとぉぉぉぉぉ!? これは大問題。「短縮=圧縮」であって1日当たりの(仕事の)濃度が濃くな り、「短縮=出張手当の 減額」ということを意味します。予想外のことが起こるものですが、自然が相手なのであきらめるしかありません。出発は延期されて9月16日(火)となりました。

 しかしながら出発が延期になってくれたおかげで、星野@阪神タイガースのセ・リーグ優勝(9月15日甲子園での対広島戦26回戦)を大阪で見ることが出来たはせめてもの救い。∩(・ω・)∩バンジャーイ! テレビで18年ぶりの優勝を見ることができたので良しとしましょう。

 翌9月16日(火)、優勝の興奮さめやらぬ大阪に別れを告げ、伊丹空港発のANA103便沖縄行きに乗るあめふらしでした。

★あめふらし、渡嘉敷島上陸 

 約2時間で沖縄・那覇空港に到着。ゲートから出ると、沖縄での契約先であるOP社のお迎えの方が『彷徨猫株式会社』(←仮名)と書かれた紙を持って待っておりました。OP社担当部署の課長さんです。軽く挨拶してOP社の社用車に乗り込んで本社へ向かいます。まずはOP社本社へ向かい担当部署の次長さんに挨拶。(部長さんは台風の被害を調査しに宮古島へ急遽出張)

世間話がてら大まかな説明を受けます。予定が変わって本日中に渡嘉敷島に渡らないとならないため、早々に話を切り上げて泊港に移動します。

 OP社の課長さんの見送りを受け、泊港16:30発のマリンライナーに乗り込み渡嘉敷島へ渡ります。そういや私にとっては波照間島以来3年ぶりぐらい、久々の高速船です。まだ台風の余波から海は少し荒れており、あの時の『あんえい丸』ほどではありませんが、確かに独特の横揺れがあります。乗り物に弱い方は酔ってしまった方も見られます。約30分で渡嘉敷島に到着しますが、あと20分ほど長かったら私も酔っていたかも・・・。

 17時、あめふらし@管理人は渡嘉敷島に上陸しました。これから3週間、この島で過ごすことになります。                                【写真右】渡嘉敷島に到着。続々と上陸する乗客達。

 ターミナルにはA氏が迎えに来て下さっていました。A氏はOP社の渡嘉敷島での担当者。OP社では年数回離島で仕事をしており、相手の会社担当者が離島に向かう毎に同行する担当者を派遣しています。今回、我々の担当となったのがA氏で、昨日に渡嘉敷島入りして準備をされていたそうです。

 まずは当面の仕事場へ。もう1人の同行者であるBさんと会い挨拶を交わします。その後すぐ近くにある村役場へ。村長・助役など村役場の幹部さん、村役場の担当の方に挨拶。村役場の担当のCさんは女性で美人ですた。ヽ(゚∀゚)ノイイ!!

 宿はターミナル近くにある旅館『村元』。我々のように仕事で長期滞在する方達が多く宿泊しています。あてがわれた部屋は4畳半の和室。これから約3週間、私の住処となるのです。

★歓迎会

 翌17日(水)の朝方、渡嘉敷村村長さんが挨拶にやって来られました。簡単な挨拶の後村長さんは帰られ、早速仕事が始まります。初日ですが淡々と仕事をこなします。17時頃に視察のため、うちの部長が来島します。昨日一緒の便で沖縄入りしていましたが、OP社本社での打ち合わせのため1日遅れで来島となったのです。

 宿に戻ってしばらくしてから、村役場やOP社の方々、うちの部長やメンバーと共にマイクロバスに乗って阿波連へ移動。歓迎会に参加します。村長さんの挨拶に始まると、あとは沖縄郷土料理のオンパレード。(゚д゚)ウマー 皆さんは酒が入りテンションが上がります。酒の飲めないあめふらしはひたすら食べるばかりでした。

 帰りのマイクロバスの中では、A氏が三線を弾き始め熱唱します。みんな聞き入ります。腕だけで踊る仕草をされる 方も。初めて聴く三線の生演奏に「沖縄に来たなぁ〜」と実感します。さぁ、明日からがんばろうと思うあめふらしでした。

 ・

 ・・

 ・・・が、この頃、沖縄の南方では、台風15号が沖縄目指して北上中でした。 

★台風15号

 9月18日(木) 。朝から快晴。台風が接近しているとは思えないほどの青空が広がっています。

観光で来ていたなら朝から遊んでいるのだろうと思いつつ仕事をします。

 来島してあちこち視察していた部長は、午後のマリンライナーに乗って帰阪のため離島 だとか。

一時仕事を中断して見送ります。(゚∀゚)/~~ 

 青空も昼過ぎには曇りだしました。夕方には強い雨が降りましたがすぐにやみます。気が付くと

17時。はい、本日の仕事は終わり。(^^;) 残業もなく、定時で仕事が終わるなんて何年ぶりのことでしょう。

 9月19日(金)、台風15号は沖縄本島をかすめて北上。取り巻きの雨雲が渡嘉敷島を覆い始めています。雨はそう強く降っていないのですが、 昨晩から吹き出した風がかなり強なりました。昨日、気持ちの良い青空が広がっていたのが嘘のようです。

 強風で海が時化たようで、朝の8時頃、朝の村役場の放送でフェリー・高速船は欠航するとの放送が流れます。ちなみに離島では船舶運航状況が一番重要な情報なんですな。

 9時頃に仕事場に移動。しばらくすると雨風が強くなります。強風が吹いて木々が大きく揺れ始め、大粒の雨が斜め45度ぐらいの角度で降り始めました。さすが沖縄。台風は活きが良く、鮮度が新鮮です。関西では暴風雨警報が出るくらいの状況なのですが、こちらでは至って普通のようです。こんな天気の中、小学生達は傘をさして平然として学校に通っています。Σ(゚Д゚;)

 近くで村の 送迎車を待っていた数人のおばあさんに「すごい天気ですね。こんな天気でも休校にならないんですか」と話しかけると、「なぁ〜にを言ってるかぁ。こんなのはかわいいもんよ。内地の人は大袈裟だなぁ〜」「この前の台風(14号のこと)の方がもっとひどかったさぁ〜」と笑っています。あぁ、沖縄に来たなぁ〜。

 雨風は時間が経つにつれて徐々に強くなっていきます。こりゃ仕事どころではありませんが、我々の仕事はほとんど室内なので関係ありません。ところが阿覇連などの島の町に何度か移動しなくてはならないこともありました。運悪く、この日は阿覇連に移動しなくてはならない日でした。

 11時前に車で阿波連に移動 します。崩壊した村道に代わって、急遽建設された仮設道路は、途中の尾根越えの坂道で既に川と化していました。無事に着くことはできるのだろうか?(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

  20分ほどで無事に阿波連の阿波連小学校に到着。仕事を終えて校長先生とお話。警報が発令されたとかで午後の授業は取りやめとなったとのことで、無事に生徒が帰宅出来るか心配しておられました。

 再び尾根を越えて渡嘉敷に戻ると、すごい大雨となっています。プラス強風。豪雨となっていま

す。どうやら暴風圏内に入っているようです。関西を直撃すた台風の暴風圏でもこれほどの強風と大雨は伴いません。さすが沖縄。台風は元気旺盛ですが、これでもまだかわいいレベルだそうです。  この大雨のため村役場も昼から閉鎖となります。我々も仕事を中止します。こんな天気では仕事できまへん。午後からお休み決定。なにせ自然が相手ですから、仕方ないですね。はい。

 晩になって台風本体は奄美大島付近まで北上したので、沖縄本島付近は暴風圏から離れます。しかしまだ強風圏には入ったままです。夜中まで大粒の雨が窓を激しく叩き付けていました。

【写真上】18日昼前までは快晴でした。渡嘉敷港を撮影。岸壁にフェリー『けらま』が停泊しています。

【写真下】19日になると天候は一変し大荒れに。分かりずらいのですが、45度ぐらいの角度で雨が降っています。

★初めての週末

 9月20日(土)、週末 キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!  仕事は半日だけ。昼からお休みです!

・・・が、空はどんよりと曇っています。(´・ω・`)ショボーン

台風は昨晩の間に沖縄から遠く離れたため雨は降っていません。しかし吹き返しの風がやや強く、肌寒い状態です。海は大荒れとなっており、本日もフェリー・高速船とも全便欠航となっています。本島にも行けないし、海で遊ぶこともできまへん。やることがなく暇をもてあそんでいましたが、A氏の運転で島内観光に出かけます。

 A氏は、40年近くに渡って沖縄の離島に派遣されているとか。沖縄にある全ての有人離島を訪れており、あちこちの島に詳しく、また知り合いが多いそうです。そんなわけで渡嘉敷島もまるで地元の島のように詳しく、南から北まであれこれと説明してくれます。これで大凡の位置関係を把握。後日からの単独放浪に役立ちました。

 この日の晩、村のお手伝いさん達やCさんも参加して派遣組での小さな宴会を開催。A氏の三線も加わり盛り上がりました。(・∀・) 日付が変わった21日、お開き後も私ら派遣組3名とA氏とで、渡嘉敷にある小さな飲み屋に移動。2時頃までカラオケとA氏の三線で騒いでおりました。(^^;)

【写真】展望台からみた渡嘉敷港と外海。ご覧の通りかなり荒れています。船・高速船は全便欠航。足止めされた観光客も多かったのでした。

★基地の島だった渡嘉敷島

 9月21日(日)、日曜日キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!

 台風の影響は完全になくなり朝から快晴ですが、海はまだ白波が立っており時化ています。しかしフェリー・高速船は2日ぶりに運航再開。フェリーは12時と17時の2便、高速船は17時の便のみ運航となります。この2日間、島で足止めされていた人達が離島して行きます。大量の生鮮食料品や荷物、それに郵便物も届いたようです。郵便局員さん曰く、欠航した時の運航再開後に届く郵便物の仕分けと配達が大変だそうです。

 15時頃から宿の車を借りて1人で島内をウロウロし始めます。ここでも放浪癖が出ました。あちこちウロウロした後、17時半

前に渡嘉敷の北にある『沖縄青年の家』に移動。 赤間山という標高227mの山が丸ごと施設となっています。ここからの眺めはかなり良く、東の方角には慶良間諸島の島々が一望でき、A氏曰く「瀬戸内海のような風景」だそうですが、なるほどそうだなと感じます。

 夕方、島の向こうに沈む太陽の光景は大変すばらしいそうです。期待して日没まで待ってみましたが、太陽が沈むまで雲は消えず完全な夕陽を見ることは出来ずじまい。この後も滞在中に何度か撮影に行きましたが、いつも雲がかかっていて見ることが出来なかったのは残念です。(´・ω・`)ショボーン

 ところで何故赤間山にこんな施設があるのでしょう? 宿泊施設だけならこれほど大々的に山を崩して平地を作る必要はなかったはずです。実はここはかつてのアメリカ軍基地。アメリカ軍政下にあったに1962年 (昭37年)、赤間山は丸ごと地対空ミサイル基地となったのです。 沖縄の日本復帰を機に、基地は撤去されて敷地は返還されたため、その跡地に『沖縄青年の家』が作られたわけです。

 今でも給水塔や一部の建物は 当時の物を使用しており、軍施設らしい建物はアメリカ軍基地であったことを物語っています。また施設内の道路も基地当時のまま。枝のように別れた道の先端は平坦な広場になっていますが、かつてはここにミサイルサイトがあったそうです。あめふらしがいつも居た場所は厳重に警備された区域で、許可された者しか立ち入りを許されない場所だった とか。

 さらにこの赤間山付近は、大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年(昭20年)3月末に集団自決があった場所で、330名近い人々が尊い命を失った場所なのです。集団自決地は数カ所に及びますが、そのほとんどがアメリカ軍基地として接収されてしまったことになります。そのため集団自決された方々を含め、渡嘉敷島でのすべての戦没者の慰霊 碑『白玉之塔』も基地の敷地外となる現在の場所に移設されています。

 今は各が広場からのんびりと夕陽を見たり、広いグランド(かつての米軍用グランド)でランニングしたり、テニスコートや野球場でいろいろと楽しんでいます。平和な光景が見られますが、多くの犠牲の上に手に入れたことを忘れてはなりません。

 渡嘉敷島の近くを米海兵隊のナイトホークが訓練飛行しているのを見てから 宿に戻りました。

●渡嘉敷島のホーク基地跡

 渡嘉敷島に米軍基地の建設が決まったのは1960年(昭35年)のことだそうです。同年3月に赤間山一体が米軍によって接収されて軍用地となりました。米軍は直ちにミサイル基地の建設を開始。1962年(昭37年)6月にホーク部隊250名が駐屯します。ホークミサイルとは、1950年代後半にアメリカが開発した防空ミサイル。主に基地防衛用の防空ミサイルでした。

 このまま基地が存続するかと思われましたが、沖縄県の日本返還を前にして1969年(昭44年)8月に基地は閉鎖されます。

わずか7年ほどの基地存続でしたが、このために山の頂上は削られて姿形は大きく変わってしまいました。なんのために基地を作ったのやら・・・┐(´ー`)┌

 ちなみに渡嘉敷港の北側にある岸壁はかつての米軍専用岸壁で、『沖縄青年の家』に向かう道路は米軍が造った道路だそうです。

赤間山山頂には、こんな感じの道路があちこちに

張り巡らされています。ミサイルサイト跡。

右下の建物が米軍施設っぽい。今はグランドとな

っているここには何があったのでしょう。

今も現役で使用されているらしい、給水塔と管理

建物。その向こうの平らな所もミサイルサイト跡。

多分今は倉庫なんでしょう。壁には米軍の識別

番号が残っていました。

頂上の広場。ここもミサイルサイト跡。半円形の

建物が未だに何かが分かりません。

基地の敷地に沿って壁が走っています。壁から内

部が基地だったのです。

★本島に観光

 翌月曜日は仕事。1日挟んだ23日(火)は秋分の日で祝日。 再び休みキタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!

 この日は朝便のマリンライナーに乗って本島へ向かいます。朝10時半頃に泊港着。1週間ぶりの本島です。渡嘉敷島の生活に馴染みつつあるようで、交通量の多いR58を見ると都会だなと感じます。

 タクシーやバスには乗らず、『とまりん』から那覇市の町中を歩き出します。曇りなのでそう暑くはありません。15分ほど町中を歩いて、沖縄初のモノレールである『ゆいレール』の美栄橋駅へ。2003年(平15年)8月に開業したばかりの出来たてホヤホヤのモノレールに乗り込み那覇空港に向かいます。

 自動券売機で切符を買って、自動改札を通ってモノレールに乗車するという、大阪や本土の大都市に住んでいる人達には当たり前のことが、沖縄の方達には初めてのことのようで、切符購入方法や乗車方法の”虎の巻”があったり、係員がお年寄りに丁寧に説明している光景が新鮮でした。

 2両編成のモノレールは少し混雑しています。珍しがって乗車している沖縄の方々が多く、ちらほらと大きな荷物を持った観光客の姿も見えます。那覇の街並みを見ながら乗ることが出来るので、これだけでも楽しめます。                      【写真右】那覇空港駅に到着したモノレール。

 しばらく走ると赤嶺駅に到着。一旦ここで下車します。赤嶺駅は『駅』としては日本最南端の駅なのです。今では『最南端の駅』の記念碑がありますが、当時はそんなものはなく上で張られているだけでした。駅周辺を散策がてら、風邪気味だったので薬屋で風邪薬を購入してから再びモノレールに乗り込みます。

 那覇空港に到着。ターミナルをブラブラ歩いた後、空港から歩いて那覇市街に向かいます。はい、もちろんサイトのネタ集めです。(^^;) 貨物ターミナル前を歩いて旧那覇空港ターミナル前へ。ここから那覇市街へ向かうR332の歩道を歩いて市街へ向かいます。今のR332が通る場所一帯は、今でこそ所々にレンタカー会社や運送会社の営業所がありますが、一部に防衛庁用地がありますがほとんどは米軍軍用地のままとなっています。R332に海側には広大な那覇軍港の敷地が広がり、背の高いフェンスが長々と設置され、その上にある”返し”は基地側ではなく外側(日本国側)に倒れているのは『基地の島』の現実を示しています。ごるぁ

 ちなみにこの付近一帯は、沖縄戦では激戦地だった場所。今の那覇空港のある場所には旧海軍航空隊基地があったので、これを確保しようとする米軍とこれを迎え撃つ旧日本軍守備隊の間で激しい戦闘があり、日米とも多くの兵士が戦死されています。

 30分ほど歩いて那覇市街へ。少し寄り道してR390を歩いて那覇フェリーターミナルへ。いつかはここに自分のバイクで降りてやろうと思い続けて早幾年・・・。果たして自分のバイクで来ることはあるのでしょうか?

 旭橋駅からモノレールに乗り込こもうとしましたが、次の県庁前駅まで歩きます。その次が美栄橋駅。200円支払うのもなんなので『とまりん』まで歩いて行くことにします。R58に出て淡々と歩道を北上。15時過ぎには『とまりん』に到着。1時間ほど待って16:00発のマリンライナーの乗船して渡嘉敷島に戻りました。

●基地の中の沖縄

 在日米軍のおよそ75%が沖縄本島とその周辺に配備されています。これは沖縄が米軍の戦略上でいかに重要な位置にあるかを示しています。至る所に米軍施設があります。最近話題になっている普天間飛行場とかは市街地のど真ん中にあったりします。米軍基地の中に日本があるという感じですね。

 今回、那覇空港から那覇市街までの間だけを歩いてみても、『基地の島』である沖縄の現状を垣間見ることができます。本来の統治国である日本に向かってフェンスが折れ曲がっているのを見ると悲しくなってきます。なんだかなぁ・・・。(つД`)

R332に沿って設けられたフェンスにぶら下がっ

ていました。ヽ(`Д´)ノ

フェンス右がR332と歩道で日本国です。左は米

軍基地。なんだかなぁ・・・。

那覇軍港の一部。装甲車や軍用車が置いてあり

ました。

★日々此平和也

 24日(水)以降、仕事は本格的になります。

基本的な1日の行動パターンですが、

@朝8時前に起きて朝食。

A9時前に仕事場所に行き、9時過ぎから仕事開始。

B淡々と仕事をこなして12時過ぎには午前の部終了。

C宿に戻り昼飯。食後は仕事中に洗濯しておいた洗濯物を干してから部屋に戻り昼寝。元気な

 者は昼休みの間に海水浴へ・・・。

D1時間ほど昼寝してから洗濯物を回収。晴れて風があれば1時間もあったら洗濯物は完全に

 乾きます。

E14時前に仕事場に戻り、14時頃から午後の部開始。

F淡々と仕事をこなして17時に午後の部終了。一日の仕事が終わります。16時以降、学校帰り

 の小学生達が遊びに来るので一緒に遊んだりします。

G宿に戻り夕食までぼけ〜と過ごします。気が向けば散策したり、宿の車で島内ウロウロ。海水浴に行った者、小学校のグランドで地元野球チームに加わった者もおりました。H19時以降20時頃までに夕食。毎日、新鮮な刺身で出てました。うまーー

I夕食後は部屋でぼけ〜とするか宴会。私は報告書作成のためパソに向かい合っていました・・・。

J各自シャワーを浴びたりして、23時以降適時就寝。

@へ戻る・・・。

 土曜日は半ドンなので、D以降は省略で半日自由時間。なんと素晴らしい日々なんでしょう。

 淡々と1日が過ぎて行きます。沖縄の離島の1日はほんとに長く、イラチ(気が短い)人が多い大阪で過ごしていると、1日半ぐらいに感じてしまいます。特に日没後が長い。晩は宴会が多いというのも何となく分かります。

 離島の方の感覚ものんびりとしていましたが、これには最後まで慣れませんでした。

【写真】渡嘉敷島には野良猫が結構おりました。かなり警戒心が強い。

●渡嘉敷島散策(1)

 晴れて暇な時は宿の車を借りてあちこちウロウロしていました。とは言っても島内だけですけど。赤間山から見る慶良間諸島の風景と島南端の海岸がお気に入りでした。

星砂ビーチと呼ばれるきれいな海岸。島の東側に

あります。この先に沖縄本島がみえるはず。

西側の海岸。見えるのは阿嘉島と慶留間島・外

地島。

島先端部から南西方向の東シナ海。どこまでもコ

バルトブルーの海が続きます。

 

渡嘉敷島本島南に位置するウン島。歩いて海峡

を渡れるそうですが、結局行かずじまいでした。

すらっと延びた直線道路と青空。沖縄らしい風景。

これでダート道だったらいうことなしです。

 

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