◇◆◇ 彷徨猫的 渡嘉敷島の基礎知識 ◇◆◇

■渡嘉敷島って?

★渡嘉敷島

 あめふらし@管理人が出張で向かった渡嘉敷島はどこにあるのでしょう。

 渡嘉敷島は、沖縄本島の那覇市より西方約32kmの東シナ海海上にある慶良間諸島の一島です。慶良間諸島の中で一番東にある島で、諸島内では最大の島となっています。南北約9km、東西約3km、島の周囲約25km、面積約16平方キロメートルの南北に細長い島です。

 島といっても平坦な島ではなく、島中央部から北側にかけて200mを越える山々が連なり、中央部から南に向かって徐々に低くなってゆきます。沖縄の離島としては 珍しく険しい山を持つ島とな

ります。島の山々の間にあるわずかな低地に3つの集落が形成されています。それらを結ぶ道路は山の鞍部を越えていますが、道路は急勾配の坂道で沖縄の離島とは思えない峠越えの風景が広がっています。

 また渡嘉敷島は山深く渓谷が多いため、沖縄の離島としては水量が豊富です。ダムが建設されているなど水に恵まれているほか、水田があって稲作が行われています。本土の山間にある農村のような風景が広がっていま す。

★渡嘉敷村

 渡嘉敷島は島全体が島尻郡渡嘉敷村となっています。渡嘉敷島の他、周囲にある前島、神山島、ナガンヌ島、黒島、儀志布島など大小いくつかの島で渡嘉敷村は形成されています。(総面積約19平方キロメートル) このうち人が住んでいるのは渡嘉敷島本島のみで、他の島は無人島となっています。渡嘉敷島本島の次に大きい前島にはかつて人が住んでいましたが、今では無人島になっています。(注1)

注1>>

2004年秋頃、大阪のローカル番組で前島に戻って生活し始めた方のことを放送していたのを見ました。本当なら今では前島は有人島 になっているというこ

とですかね。

■渡嘉敷島への行き方

 では渡嘉敷島にはどうやって行ったらいいのでしょう?それをご紹介します。

 まずは沖縄に行って下さい。ヘ(^o^ヘ)★\(_ _;) アタリマエダロ... ご自身のバイク・車で行かれる方はフェリーで、その他の方は飛行機で行くことになります。

★渡嘉敷島への玄関口〜泊港〜

 渡嘉敷島には飛行場はありません。渡嘉敷島に向かうには、沖縄本島より高速船かフェリーに乗る必要があります。渡嘉敷島を含む慶良間諸島へ向かう高速船・フェリーが発着するのは泊埠頭。まずは泊埠頭に移動しましょう。

 ご自身のバイク・車で沖縄本島に着いた方は、地図を見ながら移動出来ますので、以下は飛行機で来沖された方をメインに話を進めて行きます。

 なお高速船とフェリーの運航時刻は 、気象条件などによって事前または当日に変更となることがあるので、余裕を持って港に着くことをお勧めします。

沖縄本島と周辺の離島を結ぶ船のターミナルが泊埠頭。通称『とまりん』↑

>>泊埠頭への移動方法

@徒歩 

 那覇空港からR332〜R58を歩くと泊港に着きます。あめふらし@管理人が実際に歩いたところ、約1時間15分かかりました。(寄り道してましたけど・・・) なお歩いた時は曇り一時雨という天気でしたが、晴れた夏の日は歩かない方が無難でしょう。

あまりお勧めできません。

Aバス

 那覇空港から路線バスに乗車します。泊高橋(とまりん)バス停下車すぐです。道路状況にもよりますが、那覇空港から約30分ぐらいで到着します。20番系統『名護西線』、99番系統『天久新都心線』、120番系統『名護西空港線』、124番系統『知花(大山線)』のバスに乗車して下さい。運賃は200円(均一料金)です。

 なお沖縄のバス会社は4社あって入り乱れて運行されていますが、系統は統一されているのでどこのバス会社に乗っても大丈夫だそうです。詳しくはこちらをご覧下さい。

Bゆいレール

 『ゆいレール』とは、2003年8月に開通した沖縄初のモノレールです。那覇空港から那覇市市街中心部をウネウネと進んで 首里まで開通しています。

 しかし残念ながらモノレールは泊港を経由していません。最寄り駅は 美栄橋(みえばし)駅で、ここから約15分ほど歩かないといけません。これもまた晴れた夏の日は歩かない方が無難でしょう。詳しくはこちらをご覧下さい。

沖縄初のモノレール『ゆいレール』→

Cタクシー

 那覇空港からの一般的な移動手段はタクシーとなります。道が混んでいなければ20分ぐらいで着きますが、移動時間は余裕を持って40分ぐらい見ておいた方がよいでしょう。

 タクシーに乗って「泊港まで」と言うと、必ず「どこの島に行きますか?」と尋ねられます。

 なぜならば慶良間諸島や沖縄周辺の島々への高速 船・フェリーのほとんどは泊港から発着しますが、高速船とフェリーまたは向かう島によって乗り場が違ってい るからです。タクシーは最寄りまで車で送ってくれますので、発着する岸壁によって埠頭へ入る進入経路が変わるのです。それゆえ予めどこ島に行くかを尋ねるわけです。ちなみに渡嘉敷島に行く高速船だと泊埠頭北岸(7号岸壁)、フェリーは『とまりん』前(5号岸壁)に発着します。

 「泊埠頭の渡嘉敷島行きの高速船乗り場(『マリンライナーとかしき』の乗り場)まで」もしくは「泊埠頭の渡嘉敷行きのフェリー乗り場(『フェリーけらま』の乗り場)と言いましょう。これを最初に言うか言わないかで、その後のタクシー運ちゃんとの会話が変わります。(実体験済み)

★高速船とフェリー

 渡嘉敷島を結ぶ航路には、高速船『マリンライナーとかしき』とフェリー『けらま』の2種類の船が就航しています。共に季節によって便数が違いますので、事前に確認する必要があります。

 泊埠頭での乗り場は各々別々で、マリンライナーは泊埠頭北岸、フェリーは「とまりん」正面に発着します。この他に注意すべきことが2点あります。

@3月1日〜9月30日(夏時間)と10月1日〜2月末(冬時間)で、最終便の出航時間が違います。

A気象条件・海の状態によっては欠航となったり、出航時間の繰り上げ・繰り下げ(変更)が行われます。

 時間には余裕を持って泊埠頭に到着するようにして下さい。

>>マリンライナーとかしき

 沖縄本島・泊港〜渡嘉敷島・渡嘉敷港を約35分で結びます。1日2便運行されていますが、GW期間中と7・8月は1日3便となります。渡嘉敷島に訪れるほとんどの方はマリンライナーを利用します。

 速度が速いのは良いのですが波があると結構揺れます。下から突き上げるような高速船独特の振動があるので、乗り物(特に船)に弱い方にはつらい35分となるかも知れません。船酔い対策をしっかりととっておきましょう。

●ダイヤ(2005.07時点)

 

●運賃(2005.07時点)

3月1日〜9月30日(夏時間)

@泊港  9:00→ 9:35 渡嘉敷港 10:00→10:35 泊港

A泊港 16:30→17:05 渡嘉敷港 17:30→18:05 泊港

片道:大人 2210円/子供 1110円

 

10月1日〜2月末(冬時間)

@泊港  9:00→ 9:35 渡嘉敷港 10:00→10:35 泊港

A泊港 16:00→16:35 渡嘉敷港 17:00→17:35 泊港

往復:大人 4200円/子供 2110円

 

GW/7月1日〜8月31日

@泊港  9:00→ 9:35 渡嘉敷港 10:00→10:35 泊港

A泊港 12:00→12:35 渡嘉敷港 14:00→14:35 泊港

B泊港 16:30→17:05 渡嘉敷港 17:30→18:05 泊港

<注>往復には(渡嘉敷)島発割引があります。

    大人 3760円 子供 1890円

<注2>マリンライナー『とかしき』は旅客のみです。

 

<注>@は便名

 

>>フェリーけらま

 フェリー『けらま』は沖縄本島・泊港〜渡嘉敷島・渡嘉敷港を約70分で結びます。1日1便ですが、GW期間中と7・8月は1日2便となります。

 ゆっくりと船旅を楽しみたい方、高速船独特の揺れに弱い方はこちらをお勧めします。バイク・車で渡嘉敷島に渡られる方もフェリー利用となります。高速船とは違って多少の波でも揺れませんが、乗り物(特に船)に弱い方は船酔い対策をしておいた方が良いでしょう。

 バイク・車を積まれる方は予約することをお勧めします。

●ダイヤ(2005.07時点)

 

 

3月1日〜9月30日(夏時間)

@泊港 10:00→11:10 渡嘉敷港 16:00→17:10 泊港

 

10月1日〜2月末(冬時間)

@泊港 10:00→11:10 渡嘉敷港 15:30→16:40 泊港

 

GW/7月1日〜8月31日

@泊港 10:00→11:10 渡嘉敷港 12:00→13:10 泊港

A泊港 14:00→15:10 渡嘉敷港 16:00→17:10 泊港

 

 

<注>@は便名

 

●運賃(2005.07時点)

●自転車・バイク ●車

片道:大人 1470円/子供 740円

自転車:片道 290円/往復  580円 問い合わせて下さい。m(_ _)m
往復:大人 2800円/子供 1410円 原  付:片道 560円/往復 1120円

★詳しくは渡嘉敷村HPをご覧下さい。

<注>往復には(渡嘉敷)島発割引があります。

    大人 2500円 子供 1260円

二輪車:片道 900円/往復 1800円

 

 

★高速船&フェリー 一言アドバイス

>>座席予約はして おきましょう。

 マリンライナー『とかしき』とフェリー『けらま』は島民の方の船で、生活手段(移動手段)の一つです。観光のための船ではありません。それゆえ、乗船は島民の方から優先に行われます。

 マリンライナーの最大定員は 200名となっているので、満員に近い状態の時は(座席を)予約していないと乗船できず次便に回されます。9〜11月頃は修学旅行で島を訪れる高校があります。便によっては島民の方と高校生で満員となり、予約していない観光客は乗船できない場合があります。予め予約しておくことをお勧めします。またシーズンとなる7〜8月は予約しておかないと乗船出来ないかも知れません。

 一方、フェリーの最大定員は584名なので、よほどのことがない限りは乗船できます。こちらも島民の方が優先です。

 また車輌は島への生活物資や建築資材を運ぶトラックや工事関係車両などが優先となるので、積載量の関係で乗船できない場合が有り得ます。バイク・車で島で渡られる方は必ず予約しておきましょう。

>>欠航に注意!

 沖縄は台風がよく通ります。台風直撃時は 間違いなく全便欠航となります。台風接近時も2〜3日前から海が時化るので欠航となることが多く、また台風が過ぎ去った後も3〜5日ぐらいは吹き返しの北風で海が荒れることが多々あります。台風一過の青空なのに海が大荒れというのは良くあることで、その場合は高速 船やフェリーは欠航になります。

 台風の来ない冬季も北風が強いと海が荒れるので、同様に欠航となることがあります。天候が怪しいと思ったら、運航状況を必ず確認して下さい。冬季は運航状況を確認した方が良いです。運航状況は渡嘉敷村HPでも知ることが出来ます。 でないと、港に着いたら右写真のようになっているかも知れませんよ。

 マリンライナーは波に弱いので少しでも海が時化ると欠航になります。 しかしライナーが欠航でもフェリーは運航する場合があります。ライナーが欠航と聞いてもあきらめずに『とまりん』までは行って下さい。

 なお、欠航が決定した日や運航を再開した直後の高速船・フェリーの発着時間(ダイヤ)は大幅に変更

されることがあります。

 ダイヤが繰り上げられたり繰り下げられたりすることがあるので、必ず確認しましょう。特に飛行機利用の方は必ず確認しましょう。高速艇・フェリーが遅れたからと言っても飛行機は待ってくれません。

■渡嘉敷島での移動手段

 マリンライナー『とかしき』もしくはフェリー『けらま』に乗船して渡嘉敷島に渡って来ました。さて島に着いてからどうしたらよいのでしょう?島をぶらりと回って日帰りする方も、島に1泊する方も移動手段が必要となります。まずは道路状況からお話しましょう。

★渡嘉敷島の道路状況

 島の道はほとんどが舗装道路となっています。 島の道は、渡嘉敷〜阿波連を結ぶ2車線道(村道)を中心として村道や林道が分岐しています。この渡嘉敷〜阿波連地区を結ぶ道は山の尾根部を越えるので急勾配の坂道があります。急カーブもある山道で、本土の山間にある2車線ワインディング道路という感じの道です。

 ところが2001年9月の台風16号で渡嘉志久地区の山の斜面で発生した地滑りで道が消失 。渡嘉敷と阿覇連との移動が不可能となり、一時阿覇連地区は孤立しました。その後、大急ぎで連

絡道路を建設(02年1月に供用開始)。今はこの連絡道路経由で移動することが出来ます。被害はかなり大きなもので、2003

年9月時点では復旧していません。 もう少しかかるようです。

 なお町中には街灯などがありますが、町を出ると照明はありません。また諸林道にも照明は設置されていないので、日没後は真っ暗となります。

【写真】:復旧工事が進む崩壊現場。2003年10月撮影。

★渡嘉敷島での移動手段

 渡嘉敷島にはタクシーはありません。定期路線バスもありません。宿・ホテルの送迎バスを除けば、移動手段は徒歩かレンタカーとなります。

 島を訪れる観光客の多くがダイビングなどのマリンスポーツを楽しむ人や海水浴で来る人なので、島内をウロウロすることはあまりないでしょう。各集落内だけで行動するなら徒歩で十分です。レンタカー利用するのは島内観光をする場合ぐらいです。

>>徒歩

 安くつき健康にも良い移動方法です。渡嘉敷島はそう広くないので、渡嘉敷から阿波連までなら1時間ほどもあれば着くことが出来ます。ただ渡嘉敷〜渡嘉志久〜阿波連の各集落間には山(峠)があって、それぞれの間を徒歩で移動するのは大変です。渡嘉敷〜渡嘉志久を歩きましたが、道は急勾配で体力が必要です。

 夏場は暑さで、1年通して夜間は沿道は真っ暗となって危険なので、あまりお勧めできません。

>>レンタカー

 渡嘉敷島には『丸々丸』というレンタカー会社があります。本社は阿波連にあります。

渡嘉敷のフェリーターミナルにも受付があり、ターミナルに下りてすぐにレンタカーに乗ることもできます。 

 ただ台数に限りがあるので、予めレンタカーを利用しようと考えている方は事前に予約することをお勧めします。

>>バス

 基本的に高速船とフェリーの時間に合わせて走っています。宿・ホテルの送迎車・送迎バスの他、村営の有料バスが運行されていたように思います。

■渡嘉敷島での宿泊施設

 キャンプするとか知り合いの家に泊めてもらうという方を除けば、どこかのホテルや旅館・民宿に泊まることになります。

渡嘉敷島には、渡嘉敷・渡嘉志久(とかしく)・阿波連(あはれん)の3つの町がありますが、それぞれの地区に宿泊施設があります。基本的には飛び込み(予約なし)でも空き部屋があるなら宿泊出来ますが、宿の方も食事の用意の都合などがあるので、できるならば事前に確認・予約しておきましょう。

 なお修学旅行シーズンや観光シーズン中は満員になるおそれがあるので、この期間中に訪れる方は予め予約しておいた方が無難です。

 町の簡単な説明も交えながら宿泊施設の説明をしてまいりましょう。なお、あめふらし@管理人はほとんど渡嘉敷地区で行動していたので、渡嘉志久と阿波連地区は情報少ないです。m(_ _)m

★渡嘉敷地区

 村役場、警察署(渡嘉敷駐在所)、渡嘉敷郵便局、渡嘉敷診療所、渡嘉敷歯科診療所、中央公民館、沖縄電力渡嘉敷発電所などがあり、村の行政中心地となっています。また渡嘉敷港があって沖縄本島へのフェリー・高速船が発着しています。いわば渡嘉敷島の『玄関』ということで、立派なフェリーターミナルが建っています。

 役場より西側は民家や団地がある静かな住宅街となっています。

>>宿泊施設

 渡嘉敷地区の旅館・民宿はフェリーターミナルから歩いて移動出来ます。遠い宿でも10分以内に到着出来ます。交通の便的には一番良い場所にありますが、海水浴などには向いていません。

 渡嘉敷地区の町中にある旅館・民宿は、主に出張で来島した人や島の公共工事関係者などの長期滞在者向けとなっています。観光目的で来島された方でも宿泊できると思いますが、満室状態となっていることが多いようなので断られるかも知れません。ちなみにあめふらし@管理人が宿泊したのは渡嘉敷地区の旅館でした。

>>商店など

 コンビニとJA売店(JA渡嘉敷)があります。コンビニといっても個人経営の小さな商店で、週刊誌などを頼んでおくと取り寄せてくれるようです。駐車場脇にはテーブルがあって、夜になると宴会が開催されていました。

 JA売店は中央公民館前(というか役場の隣)にあります。こちらにも日用雑貨はありますが、どちらかというと昔ながらの商店という感じの店でした。朝、ここで売っていた牛乳を買って飲むのが習慣となっていました。他にも港のフェリーターミナル内にも売店がありますが、こちらは観光客向けの土産物中心でした。 あと個人経営の商店が2店あります。

 渡嘉敷島全体の店・商店に共通して言えることなのですが、海が荒れてフェリー・高速船が欠航となると当然品物は入ってこなくなります。数日欠航が続くと、生鮮食料品から姿を消しやがて品切れの品が多くなっていきます。自動販売機も炭酸飲料系の飲み物から無くなってゆきます。キャンプ場などで自活する方はお気を付けて・・・。

>>郵便局

 渡嘉敷島には銀行はありません。銀行のATMもありません。唯一の金融機関は郵便局だけです。滞在中、いろいろと助かりました。m(_ _)m 渡嘉敷郵便局は中央公民館裏にあります。

 ATMでのお金以外にも、当然のことながら各種保険や振り込み、『ゆうパック』も取り扱っています。ただ郵便物や荷物は、フェリー・高速船が欠航になると到着が遅れます。

>>医療機関

 県立那覇病院渡嘉敷診療所(:098-987-2028)、渡嘉敷村歯科診療所(:098-987-3220:土日のみ診療。診療時間に注意)があります。

>>道路

 村役場前から港にかけての道は、道幅が狭いために右回り(時計回り)の一方通行となっています。港近くの渡嘉敷小中学校前に島唯一の信号機もあるので、レンタカーで走る場合は注意が必要です。ちなみに役場前から港までの間はr186(沖縄県道渡嘉敷港線)という県道となっているそうですが、標識とかはありませんでした。

 なお、フェリーターミナル前では時々ですがシートベルト検問や飲酒検問が行われていることがあります。離島だからと言って油断してはいけません。

>>ガソリンスタンド

 渡嘉敷港近くに1軒あります。ここが渡嘉敷島唯一のGSです。

★渡嘉志久地区

  渡嘉敷村営団地があります。『渡嘉敷島のニュータウン』という感じの町です。

>>宿泊施設

 海岸(渡嘉志久ビーチ)に面してホテル『とかしくマリンビレッジ』があります。ここに宿泊すれば、ほとんど移動することなく海水浴を楽しむことが出来ます。ただ周囲は住宅や団地なので飲んだり遊ぶ所はありません。

 またこの地区には渡嘉志久キャンプ場があります。問い合わせ>>村役場経済課:098-987-2323

>>その他の施設

 『マリンビレッジ』内にレストランや土産物コーナーなどがあります。商店などはなかったように思います。

★阿波連地区

 島の南にある集落です。渡嘉敷地区が行政の町であるとすれば、阿波連地区は観光地という感じの町です。

 町の西側には阿覇連ビーチが広がっており、海水浴やダイビングの拠点となっています。表通りには海水浴を楽しんだ観光客がブラブラ歩いています。多くの民宿の他、飲食店や商店もあってにぎやかな集落です。しかし少し裏道に入ると、昔ながらの沖縄の民家が建ち並んでいます。

>>宿泊施設

 民宿 ・ペンション・ホテルがあります。海水浴や観光目的で宿泊される方が多いようです。内海に面した漁港なのでダイビング

関係の店も数軒あり、ダイビングで来島した人の多くは阿波連地区の民宿などに泊まるようです。

 「値段的にホテルはちょっと・・・」という方は民宿に泊まりましょう。個人的なことですが、民宿に泊まった方が島の方々と触れ合えて楽しめます。阿波連地区には青少年旅行村キャンプ場もあります。

>>飲食店・商店など

 観光客が多いためか、飲食店や商店・土産物屋が数軒あります。『』というレストランもあって、ダイビング関係の人達でにぎわっています。

>>その他の施設

 裏通りは昔ながらの住宅街となっています。道路は狭い道が多いので、歩行者(特に子供)に注意して下さい。

■渡嘉敷島の歴史〜知っておこう。沖縄戦での渡嘉敷島〜

★明治時代まで

 渡嘉敷島には古来より人が住んでいたことが遺跡などから分かっています。記録として残っているのは12世紀頃からだそうです。その頃から琉球(現在の沖縄)が薩摩の島津藩による侵略を受けるまで、渡嘉敷島を含む慶良間一帯は琉球王府に従っていました。17世紀以後は薩摩島津藩の支配下に置かれます。

 渡嘉敷島は琉球王府首都である那覇から中国(唐〜明〜清)に向かう進貢貿易船が寄港し停泊する場所として重要な島となります。渡嘉敷や阿波連はこうした寄港地として、17世紀の島津藩による琉球王府侵略後も、寄港地として賑わったそうです。

 19世紀中頃になると、今度はアメリカが出てきます。1855年にアメリカ海軍北太平洋調査艦隊が慶良間海域を調査し、渡嘉敷島に上陸・計量しています。こういう傍若無人な振る舞いは今も同じですね。ちなみに江戸幕府を武力で脅して開国させたペリー提督御一行様は、1853年4月に沖縄本島に来航してから6月に浦賀沖へと移動しています。いざという場合は沖縄を占領して植民地化するつもりだったそうです。

★明治〜昭和(戦前)

 明治維新 後の1872年(明治5年)9月に琉球藩が設置されると、渡嘉敷島はそのまま琉球藩に属することになります。渡嘉敷島は、座間味島に駐在した在勤官という県庁の役人によって管理されていました。1879年(明治12年)3月には廃藩置県により沖縄県が発足。これと同時に管理は那覇役所長に移されます。1896年(明治29年)には島尻郡の行政地域に編入され、

1908年(明治41年)には沖縄県島尻郡渡嘉敷村が発足します。

 渡嘉敷島では1903年(明治36年)に鰹漁業の会社が創業し、その後順調に拡大。1928年(昭3年)頃には20t級の船を持つまでになるほど成長し、村の一大産業となりました。それに合わせて島も順調に発展します。 しかしそれもつかの間でした。

★昭和時代(大東亜戦争<太平洋戦争>)

>>沖縄上陸までの流れ

 1941年(昭16年)12月、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発すると沖縄県は南方(東南アジアやフィリピン)などへの戦略的重要拠点となります。当初は破竹の勢いだった日本軍も、やがて息切れし1943年(昭18年)年以降、戦局が日本に不利になるにつれて沖縄近海には連合軍の潜水艦・軍艦や航空機が出没するようになります。

 1945年(昭20年)に入 ると戦局はますます不利に・・・。 44年10月にフィリピンのルソン島、45年2月に硫黄島にアメリカ軍を主体とする連合軍が上陸 。激戦の後に、ルソン島を含むフィリピン諸島は44年末までに事実上陥落、硫黄島は45年3月末までに陥落します。そして次は台湾か沖縄か・・・。どちらかに上陸してくるのも時間の問題でした。(注1)

>>沖縄戦における渡嘉敷島

 アメリカは1944年10月に、沖縄本島を含む琉球列島の確保を目指した『アイスバーグ作戦』を決定します。この作戦は日本本土と南方地域との物資輸送を分断を目的としており、作戦開始は1945年4月1日とされていました。(注2)

  これより前の1945年(昭20年)3月23日より、アメリカ軍は慶良間諸島への攻撃を開始します。 沖縄本島上陸を前に、慶良間諸島の確保に乗り出したのです。沖縄本島から30kmほどしか離れていない諸島内には周りを島々に囲まれた広い内海 (慶良間海峡と阿喜海峡)があり、ここが艦艇の投錨地と水上機基地として最適な場所となる他、補給物資の集積地や損傷した艦船などの修理場所など、沖縄本島上陸作戦での前線基地として確保する必要があったのです。

 事前に徹底的な砲爆撃を加えてから上陸を行うというのがアメリカ軍の上陸作戦でのパターン。渡嘉敷島も例外ではなく、艦艇による艦砲射撃と航空機による爆撃が行われます。山の形が変形してしまうほどの激しい艦砲射撃だったそうです。3月26日、まずアメリカ軍は阿嘉島・慶留間島・外地島・座間味島・屋嘉比島への上陸を開始し、翌日まで座間味群島を占領します。そして3月27日、ついに渡嘉敷島にアメリカ軍が上陸を開始。上陸場所は渡嘉敷島南西岸、阿覇連の北側にある砂浜(今の渡嘉志久地区)、そして阿覇連でした。

 渡嘉敷島には住民の他に日本軍守備隊と陸軍の特攻兵器である『マルレ』と呼ばれる特攻艇

(ボートに爆薬を積んだ特別攻撃兵器)の部隊(海上挺身第三戦隊:司令官 赤松大尉)が駐留していました。日本側は沖縄本島に上陸する連合軍の艦船への攻撃基地として渡嘉敷島を初めとした島々にこれらの特攻兵器を配置していました。しかし激しい艦砲射撃と空爆により特攻艇は出撃できることが出来なくなり、命令により隊員の手により自沈させられます。特攻艇乗組員達は守備隊と共に上陸したアメリカ軍と戦うことになります。このときの日本兵守備隊は全部で315名いましたが、その後の降伏までの戦闘で52名が戦死、18名は栄養失調により死亡したそうです。(石碑による)

 このとき住民は、豪雨の中を渡嘉敷島北西部にある恩納河原など数カ所に避難しています。

【写真】:渡嘉敷島での戦いの経緯を記した『戦跡碑』。

>>渡嘉敷島での悲劇

 島中央部や北部の密林地帯に逃げ隠れた日本軍と上陸したアメリカ軍との間で激戦が繰り広げられます。しかし物量に勝るアメリカ軍は3月28日までに渡嘉敷島全島を占領。日本軍と住民達は島の北部へと追いやられ、そしてついに悲劇が起こります。

 「もはやこれまで・・・」と覚悟を決めた住民達が次々と集団自決したのです。『アメリカ兵に捕まれば、男は虐殺され女は暴行される』と教育され信じ込んでいた住民達は、アメリカ兵に捕まって殺されるならと自ら命を絶ったのです。皆で集まり手榴弾を爆発させた家族。親がカマで子供の首を切ったり縄で首を絞める等々・・・。この世とは思えない地獄絵図さながらの光景が繰り広げられました。

 アメリカ軍の記録によると、28日夜、島北部で野営した部隊が爆発音と苦痛によるうめき声を聞いたとあります。翌朝、小さな

谷間に150以上の死体が散乱。辛うじて息のある者もいました。これらのほとんどが住民だったそうです。悲惨な光景を見たアメリカ軍は医療班を始め、一般兵士までもが救出や治療にあたったそうです。

 渡嘉敷島上陸〜占領までの間に戦死した日本軍人・軍属・防衛隊員は204名。それに対して死亡した住民はなんと368名。アメリカ兵に撃ち殺されたり攻撃されたりして亡くなった住民もいましたが、うち329名(渡嘉敷島HPによる)は集団自決による死者とのことです・・・。 (石碑では394名となっています。)

【写真】:赤間山の敷地内にはこういう案内があったりします。

この先に自決跡があるのですが、撮影しておりません。

>>終戦までの悲劇

 1945年3月28日、アメリカ軍は渡嘉敷島を占領します。以後、アメリカ軍は沖縄本島の確保を目指して作戦を進めて行きます。渡嘉敷島もアメリカ軍の占領下に入っても戦闘は終わりません。山中に逃れた日本軍の一部はゲリラ的な活動を行い徹底抗戦を行います。そのためアメリカ軍も4月以降に掃討作戦を継続。島の各地で散発的な戦闘が発生しています。

 生き残った住民達も、山中に潜んでひたすら耐え続きます。ところが食料はほとんどなくすぐに尽きていまい深刻な飢餓が発生。住民達はネズミやソテツの幹などまでも食べて餓えをしのぎます。餓死する住民や食料を探していてアメリカ兵に撃ち殺される住民も続出。悲劇は渡嘉敷島占領後の4月以降も続きます。

 また艦艇の泊地となっていた内海には、連日数機ずつの特別攻撃機が突入。陸海共々多くの命が失われて行きました。

 1945年8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏し終戦。全日本軍に対して戦闘停止と武装解除命令が下されます。渡嘉敷島の山中に潜んでいた部隊もこれを受け入れ、8月23日、アメリカ軍に対して降伏。ここに約5ヶ月に渡った渡嘉敷島での戦闘は終わりました。

>>注1

 結局、アメリカは台湾上陸(コーズウェイ作戦:45年春予定)を断念して沖縄攻略を決定します。台湾の地形の制約もありましたが、フィリピン(ルソン島)を確保すれば台湾を占領する必要性が低くな ったためだそうです。台湾本島よりも沖縄本島は遙かに小さいわけで、その分だけアメリカ軍の人的被害も少なくなるとの見解もありました。

 また44年秋頃までには終わると見られていた対独戦が予想以上に長引き、ヨーロッパ戦線の兵力・資材を太平洋戦線(台湾上陸作戦)に転用できなくなったことも沖縄上陸の遠因となりました。

>>注2

 作戦立案当初、琉球列島の確保はルソン島・硫黄島攻略作戦の一環として計画されていました。1945年秋に予定されていた日本本土上陸作戦(オリンピック作戦)では、作戦行動や補給上、沖縄は重要拠点となることは確実なわけで、それも想定して沖縄を占領したのかも知れません。

主な参考文献

沖縄 〜日米最後の戦闘〜 アメリカ陸軍省編 (光人社文庫)

沖縄非遇の作戦 (光人社文庫)

その他

★昭和時代(琉球政府時代)

>>終戦直後

 1945年(昭20年)8月15日終戦。多くの民間人を巻き込んだ戦争は終了します。これで平和な生活が戻ってくるかと思われた渡嘉敷島でしたが、まだ多くの問題が生じました。

 戦争により破壊されたインフラ設備や住宅の再建もそうですが、 米軍が占領した伊江島から住民約1700名が渡嘉敷部落へ強制的に移住させられていたため、終戦と同時に約2000名近い住民が何もない場所での生活を余儀なくされたのです。

【写真】:渡嘉敷地区にある『伊江村民収容地跡記念碑』。

 戦闘によりインフラ設備や住宅はほとんど破壊されており、食料も配給されるとはいえ十分とは言えず、苦しい生活を送らねばならなかったのです。

>>復興

 1946年(昭21年)になると、徐々に復興が進み出します。7月には伊江島からの避難民が沖縄本島に引き上げます。また同じ7月には米軍から配船された上陸用舟艇で漁業が再開され、島の産業が徐々に復活の途を歩み出しました。その後は徐々に設備も整えられるようになり、1950年(昭25年)には鰹加工工場が建設。また本格的な漁船が配船され漁業も活気づきました。

 

>>米軍の進駐

 1960年(昭35年)3月22日、渡嘉敷島赤間山 は米軍により接収され、ここに防空ミサイル基地が建設されました。ミサイル関連施設の他にもヘリポート、レーダーサイト、兵舎などの関連軍施設が建設され、山一つが丸ごと基地化しました。基地施設の敷地内には集団自決地も含まれ、基地建設に伴い供養塔は施設外に移設しています。

 基地は1962年(昭37年)に完成。完成と同時に約250名の基地要員が駐屯します。ちなみに鰹加工工場は、多くの若者が基地建設工事などに転職したのと、漁獲量の減少によりこの頃

に廃れてしまったそうです。

 ところが基地は1969年(昭44年)に閉鎖。米軍は渡嘉敷島から撤収します。なんのために山を一つぶち壊したのでしょうか。今は『沖縄青年の家』となっています。

【写真】:現在の赤間山山頂にはやたらと広大な草地があちこちにあります。これらはすべて基地跡です。

★昭和時代(日本復帰)〜現在

>>現在の渡嘉敷島

 1972年(昭47年)5月15日、沖縄県は日本に復帰します。その後、島の施設は徐々に整備され、ゴミ焼却場、貯水ダムなどが次々に完成して行きました。

 そして現在の平成の世へ。渡嘉敷島は『ホエールウォッチング』を初めとして海水浴・ダイビングなどの観光地として有名になっています。

【写真】:渡嘉志久ビーチにあった展望台。屋根には鯨のモニュメントがあります。

近くのシャワーの上には巨大カマキリの像とかがありました。

注意>>この項は、あめふらし@管理人が調べた範囲内で作っています。間違いなどがあればご連絡下さい。m(_ _)m

【彷徨猫的 渡嘉敷島の基礎知識 終わり】

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