八甲田山の悲劇

 

 〜雪中遭難事件〜

●背景

 日清戦争(1894年8月〜95年4月)は日本の勝利に終わった。日清戦争後、遼東半島や中国東北部の利権を巡って日本とロシア帝国の対立は年々激しくなっっていく。ロシアが朝鮮半島にまで触手を伸ばし始めたことに危機感を抱いた明治日本は、対ロシア戦争を想定し帝国陸海軍の軍備を増強していた。

 青森に司令部を置く帝国陸軍第5連隊では、日露戦勃発後の露軍の青森近郊への上陸や陸奥湾封鎖などを想定した対策を考え出す必要があった。露軍により鉄道が爆破されたり海岸線付近を占領された場合は、内陸の八甲田連峰徒歩で移動するということになった。

 こうした考えの下で、八甲田連峰の行軍に関する研究が行われることになり、やがて冬期の雪中行軍が実施されることになる。この行軍は、戦時における移動訓練の他、中国東北部(満州)やシベリアなど極寒地での戦闘を想定した訓練と研究も兼ねていたようでもあった。

●事件のあらまし

1.青森隊と弘前隊

 青森の第5連隊では、第5中隊中隊長・神成文吉大尉指揮官として行軍部隊を編成することになった。(以下青森隊と記す

) 神成大尉は部隊を小隊か中隊かどちらかの規模で編成するか迷っていた。ところが上官の第二大隊長・山口ユ少佐が中隊規模での編成とし、さらに大隊本部を行軍部隊に随行させることに決定してしまった。上官の決定に対して神成大尉は逆らうことは出来ず、ここに210名もの大部隊からなる雪中行軍部隊が編成された。行軍ルートは青森を出発して小峠・大峠を越え田代温泉までの1泊2日の行程であった。なお山口少佐ら大隊本部は臨時随行という形での参加となっており、あくまでも全体の指揮は神成大尉がとることになっていた。

 本来、雪中行軍部隊の指揮官である神成大尉を差し置いて山口少佐が部隊編成を決定してしまった背景には、軍上層部への期待に応えることに夢中になり、また天候に恵まれた予備演習(出発の5日前に実施)で凍傷に罹った兵が出なかったことで、雪に対する認識が甘くなったことなどがあったためだろう。要因はどうであれ、この決定が悲劇の引き金になってしまった。

 一方、弘前にある第31連隊でも雪中行軍が計画されていた。ちなみにこれは全くの偶然で、双方とも雪中行軍が計画されていることは全く知らなかったそうである。さて、第31連隊では福島泰蔵大尉が指揮官となり、十分な時間をかけて部隊編成に当たった。(以下弘前隊と記す) 部隊は将校37名と従軍記者1名の合計38名で編成。道中には案内人(山に詳しい地元の人や猟師・マタギ)を付け民泊を予定。弘前から小国経由で十和田湖南岸を通り宇樽部へ。さらに三本木経由で田代・田茂木野経由で青森へ出、浪岡を経て弘前に帰るという全行程10泊の行軍であった。

2.運命の岐路〜小峠〜

 1902年(明35年)1月23日、青森隊は盛大な見送りを受けて出発する。これより先、1月20日には弘前隊が同じく盛大な見送りを受けて出発している。青森隊弘前隊はほぼ同じ時期に八甲田連峰に入ることになる。

 青森隊は幸畑にある陸軍墓地を経て一路南下を続ける。この途中、田茂木野村落(現:青森県青森市)を通過する時、地元の老人に天候が悪化しており(八甲田連峰)に入山は無理であることを告げられる。しかし青森隊の将校は一蹴。それならと、老人は山に詳しい人物を案内に付けると申し出るが、将校らはこれも拒否して老人を追い返してしまった。

 田茂木野を過ぎると急激に積雪量が増えた。その中を210名もの部隊が黙々と進んでいくが、最後尾を進む食料などを積んだ橇(そり)隊は大きく遅れてしまった。正午少し前、小峠で橇隊が追いつくまで小休止をする。この間、気候はますます悪化し

始めた。この時の気温はすでに零下11度。凍てつく寒さで兵士が携帯した握り飯は凍っていたという。

 随行した軍医は、軍医の立場から判断して「この状況下で山奥に入り込むのは危険であり引き返すべきです」と神成大尉に進言。神成大尉もこれに同意するが、上官の山口少佐に指示を仰いだ。山口少佐ら大隊本部の将校らは会議を開くが、長期伍長らの『軍の威信』を盾にした強い意見に押されてしまう。そして、臨時随行の立場である山口少佐が抜刀して出発の号令を発した。少佐は、本来の指揮官である神成大尉から指揮権を奪ったことになる。これで全ての運命が決まった・・・。

【写真】後藤伍長の銅像への遊歩道入口にある記念碑の説明。

銅像の台座にあるものを分かりやすくした物。

3.一回目の露営

 23日正午頃、青森隊は出発する。その頃より吹雪は強くなりやがて視界はなくなり、周囲は全て真っ白になってしまった。大暴風雪となったのだ。大峠を越え、大滝平、賽の河原と少しずつ南下して行くが、進むに連れて雪はどんどん深くなり腰を越えるぐらいにまでなったという。

 夕方、馬立場に到着する。しかし後続の橇隊が脱落したため、神成大尉は隊の一部を応援に向かわせる一方で、斥候隊を田代に向かって先行させたが、凄まじい猛吹雪と視界不良のため進路を誤ってすぐに戻ってきた。これを知った山口少佐は、少佐の独断で兵士3名に斥候として先行するよう命令する。命令系統の混乱で兵士の間にも混乱が生じ始めていた。

 20時過ぎ、この斥候隊も進路を発見出来ずに引き返してきた。そして田代まで約2kmの所にある「平沢の森」において雪壕を掘り露営することになった。23時過ぎ、大隊本部の雪壕を最後に各小隊の雪壕が完成する。大隊本部の雪壕が最後になったのは、「下士卒の中から一人の凍傷患者も出さない」という山口少佐の配慮からだったという。

4.悲劇の始まり・・・

 日付が変わった1月24日になっても吹雪が収まることはなかった。山口少佐は直ちに帰営することを主張し始めた。これに対して神成大尉は、朝になれば天候が回復するかも知れないのでそれから決定しても遅くはないと主張した。夜間の行軍が危険であるという立場からの意見だろう。しばらく押し問答が続くが、ついに山口少佐は抜刀して出発の号令を出してしまった。24日午前2時半頃、青森隊は雪壕を出発。このときの気温は零下24度だったという・・・。

 ついに悲劇が始まった。青森隊は猛吹雪と視界不良、さらに夜間ということもあって進路を誤ってしまった。馬立場を目指したつもりが、鳴沢渓谷に迷い込んでしまったのだ。進むことも引き返すことも出来なくなり、やむ得ず崖をよじ登ることになった。もちろん暗闇でなおかつ猛吹雪の中でである。かじかんで動かぬ指そして睡眠不足・疲れ・空腹・寒さなどで、ここで幾人かの兵士が崖を滑り落ちていった。ついに犠牲者が出始めたのである・・・。

 やがて一人の兵士が田代への道を知っていると申し出てきた。これを鵜呑みにした山口少佐は帰営という方針を撤回して、一転田代に向かうことにした。しかし駒込川本流の深い谷に迷い込んでしまった・・・。隊は再び崖を登って高地に向かった。高地に着くまでにまた多くの犠牲者が出てしまい、士気は著しく低下した。

 夕方、わずかな窪地を見つけた青森隊はここで露営することにした。しかし兵士の状態は極限を超えていた。極度の疲労から昏睡する者、尿意を我慢しきれず放尿してしまいそのまま凍り付いてしまう者、さらには発狂して裸になって雪の中を泳ぎ出す者、銃剣で木を刺しまくる者などなど・・・。そのほとんど全てはそのまま二度と起きあがることはなかった。

 神成大尉は動いている方が被害が少ないので直ちに出発することを具申するが、山口少佐は止まって朝を待つと主張。そのまま第二露営地で朝まで待つことになった。ここまでですでに約40名の犠牲者が出ていた。ちなみに第二露営地は第一露営地から700mほどの距離しか離

れていなかったという。

 一方、連隊本部では動きがあった。雪中行軍隊を危惧して第5連隊長津川鎌光中佐は、24日昼過ぎに救援隊40名を田茂木野まで派遣していた。田茂木野で待機する救援隊。しかし計画ではこの日に帰ってくるはずの青森隊は、夜中になっても帰ってこなかった・・・。(25日にも救援隊を派遣しています。)

 同じ時期に雪中行軍を開始していた弘前隊は、この日宇樽部を出発し、地元案内人の先導のもと犬吠峠を越えて戸来(現:青森県三戸郡新郷村)を越えて中里(現:青森県上北郡十和田湖町)まで達していた。

【写真】茶屋の裏手にある丘付近には多くの遭難者のご遺体があったそうです・・・。

5.絶望・・・

 1月25日、青森隊は移動を始める。しかし天候は回復することなく猛吹雪が続いている。携行した食料は全て凍り付き、空腹のままの行軍であった。極度の疲労と空腹で倒れる兵隊が続出する。山口少佐は両側を兵に支えられてようやく歩いている状態であった。他の兵士達は、先頭を行く神成大尉と倉石大尉の後について、ふらふらとついて行く状態が続いていた。

 神成大尉は、凍てついて使い物にならなくなた磁石に頼らず、地図だけを頼りに馬立場目指して進んでいた。やがてブナ林に行き当たる。唖然とする神成大尉。

 

「天は我々を見放した・・・」

 

 映画『八甲田山』で有名なこの台詞は、このとき神成大尉が絶望のあまり発した言葉であった。神成大尉は露営地に戻って、先に死んでいった者達と共に死ぬことを考え始める。

 こんな中、倉石大尉は斥候隊を2隊編成して田茂木野方面へと送り出す。斥候が帰ってくるまでの間、一人また一人と倒れて行く。かろうじて立っている者達も幻覚を見る者達が続出した。

 斥候が帰ってきたので隊は田茂木野に向けて出発するが、馬立場の北に位置する中の森で露営することになった。この時点で、雪中行軍隊はその半数近くが亡くなっていた・・・。

 1月26日、青森隊は猛吹雪の中を歩き続けていた。その間にも倒れる者が続き、行軍隊の生存者は30名ほどになっていた。出発時の約1/7である。隊はついに2つに別れて行動することになる。山口少佐・倉橋大尉・伊藤中尉以下数十名の隊は、駒込川沿いに進んで青森に向かって進んでいったが渓谷にはまり動けなくなってしまった。やむ得ずここで救助を待つことにした。

 一方、神成大尉らの隊は田茂木野に向かって歩き続けていた。この日、神成大尉は後藤房之助伍長に対して、田茂木野に向かい連隊本部に報告するように命令する。後藤伍長は田茂木野に向かって歩き出した。

 青森にある第5連隊連隊本部では、雪中行軍隊が遭難したと判断。三神大尉を指揮官とした捜索隊が編成され救助に向かった。捜索隊は地元案内人27名を含む総勢60名であった。

 一方、弘前隊は25〜26日にかけて、中里から三本木(現:青森県十和田市)経由で増沢(現:青森県十和田市)に到着していた。

【写真】記念碑の前には花が咲いていました。

6.遭難発覚

 1月27日、弘前隊は最大の難所である八甲田山へ向かうため増沢(現:青森県十和田市)を出発する。現在のr40(県道青森田代十和田線)に近いルートをとったのだろう。弘前隊は地元案内人7名を雇っていた。

 三神大尉率いる捜索隊は田茂木野を越えて八甲田山に入った。27日午前、大滝平において捜索隊は雪中に立つ不自然な氷塊を発見する。近づいて調べてみると、それは雪中で立ったまま仮死状態に陥っていた後藤伍長であった。軍医は後藤伍長を直ちに蘇生すると共に、捜索隊は周囲を捜索した。

 しばらく後、後藤伍長発見場所から西へ100mほど進んだところで神成大尉が発見されたが、蘇生処置がなされたがすぐに死亡した。この時、神成大尉の皮膚はカチカチに凍っており注射針が全く刺さらなかったという・・・。

 27日晩、青森の連隊本部に三神大尉が駆け込み、後藤伍長を発見したことと雪中行軍隊が遭難し全滅した模様であること、また捜索隊の半数が凍傷にかかり行動不可能になったことを報告する。これを聞いた津川中佐は蒼白となったという。弘前の第31連隊にも連絡され、第5師団挙げての救助活動が開始されることになった。遭難から4日目のことである。

 この日、弘前隊は田代(現:青森県青森市)に到着・露営している。

7.弘前隊の生還

 1月28日、弘前隊はついに八甲田山に突入する。ものすごい吹雪の中を黙々と歩く行軍隊。やがて雪中に2丁の銃と2名の兵士の遺体を発見した。福島大尉は、おそらくこの時点でどこかの部隊(この時点は知ることができないはず)が遭難したことを

悟ったのだろう。

 弘前隊は、猛吹雪の中、青森隊が遭難した現場を通り抜ける。やがて青森市街の街明かりが見えてきた。福島大尉はここで案内人7名に対して電車賃として一人2円づつ手渡す。そして「過去2日間に見たことは、絶対に口外してはならぬ」と言って

、案内人7名を残して田茂木野方面に向かって行軍していった。翌29日午前2時過ぎ、弘前隊は田茂木野に到着する。そしてここにある遺体安置所にて、初めて青森隊が遭難したことを知った。

 1月30日、弘前隊は青森を経て浪岡に到着。翌31日、弘前に到着した。弘前隊は怪我人を一人出しただけぐらいで、37名全員が無事生還した。

●青森隊の捜索救援活動

 1月27日の後藤伍長発見、遭難の報告を受けた後、連隊本部では青森隊を救援すべく行動を起こした。29日までに資材搬入・電線設置を終え、要所要所に伝令所を設けた。なお、神成大尉の遺体は29日に収容されている。

 1月30日より本格的な捜索救援活動が開始される。同日、賽の河原にて中野中尉以下36名の遺体を発見する。翌31日以降、16名の生存者と160名弱の遺体を発見・収容する。最後の生存者の救出は2月2日であり、その後は遺体だけが発見されるだけであった。

 範囲が広大なためと積雪の為、遺体の発見・収容作業は難航。春を迎え雪解けの季節を迎えると、遺体は腐敗し始めていたという。雪解け水と共に川の下流に流されて、流域の住民に発見される遺体もあった。5月28日、三階滝上方において佐藤上等兵の遺体を発見。ここに第5連隊雪中行軍隊の遭難者全遺体(193名)を収容した。武器や装備の捜索活動は7月まで行われた。

●生存者とその後

 救出されたのはわずか17名。そのうち救助後に6名が死亡したので、生存者は11名だけであった。行軍に参加した210名のうち199名が亡くなったのだ。

 生存者のうち、五体満足で生き残ったのは倉石一大尉・伊東格明中尉・長谷川偵三特務曹長・及川平助一等兵の4名のみ。倉石大尉は東京に行った際にたまたまゴム長靴を購入しており、それを履いていたため凍傷を免れたという。残る7名は凍傷により手足が切断されたため除隊となってしまった。

 なお弘前隊と青森隊の生き残りは、その後の日露戦争(1904年2月〜05年9月)に参加。福島大尉・倉石大尉は黒溝台会戦で戦死。伊東中尉・長谷川特務曹長は重傷を負う。(及川一等兵は不明)

 後藤伍長は、雪中行軍があったという事実を後世に伝えるべく建てられた『雪中行軍記念像』のモデルとなった。この像は、1904年(明治37年)10月、後藤伍長の発見時の姿を模して作ら

れている。後藤伍長本人だが、除隊後は郷里の宮城県姫松村に戻り村議会議員を務める。しかし1924年(大正13年)7月に逝去。享年46歳であった。

 生存者の中で最後まで生きておられたのが小原忠三郎伍長。小原伍長は1月31日に大滝下流の渓谷付近で救助されたが、両手指と両足を凍傷のため切断され除隊となっていた。小原伍長は明治〜大正〜昭和と激動の日本を見続けた後、197

0年(昭45年)2月5日に91歳で逝去された。その遺骨の一部は、幸畑にある陸軍墓地に分骨された。

●謎・・・

 山口少佐は1月31日昼過ぎに救助された。救出された17名のうちの1名だったのだ。少佐はすぐに病院に運ばれて治療を受けるが、残念なことに2日後に死亡してしまった。軍の報告書では病気療養中に死亡したとされている。

 ところが自殺したのではないかという説もある。この説は小笠原氏が取材の過程で出てきたものらしい。この説に基づいて、映画『八甲田山』では山田少佐(山口少佐をモデルとした映画中での人物)は拳銃で自殺している。

 だがこれは無理がある。山口少佐も凍傷を負っていたからだ。カルテにも指が腫れて曲がっている旨記載されていたとのことで、そんな状態の指で拳銃の引き金が引けるのかという疑問が出てくる。ここから他殺説という話も出ている。

 不自然な山口少佐の死因は、八甲田山の遭難事件の謎となっている。恐らく事実は永遠に謎のままかも知れない・・・。

【参考資料】

映画『八甲田山』

吹雪の惨劇

雪中遭難記録写真集

>>もどる