九州ツーリング2002

 

2002年4月7日(日)〜4月14日(日)

南九州に行きたくなった。

どうしても行きたくなった所があったのだ。

こうなると計画を立てるのは早い。

速攻で計画を立て、仕事を段取りし、準備をすませて4月を迎えた。

 

新年度早々のツーリングです。

 

2002年4月7日(日) 【自宅→六甲FT:48km】

 予定では4月第一週にツーリングを計画していた。しかし、第一週に母親が旅行のため不在となる間、飼っている犬猫の世話をしなくてはならず、出発を第2週に変更する。第1週は大変良い天気が続いたが、第2週は晴天をもたらした高気圧が去るため天気は周期的に変わるそうだ・・・ 仕方ない。

 予定を変更。志布志に入って南九州を周遊して北上し大分から帰阪というルートを止め、大分から入り南下して南九州を周遊して宮崎か志布志から帰阪するというルートとする。予定していたコースを逆にしただけだ。

 さて7日当日を迎える。実は6日に出発予定だったのだが準備が遅れてしまい1日ずれてしまったのだ。夕方に自宅を出発し阪神高速湾岸線を走って六甲FTに向かう。17時過ぎに到着。

神戸・六甲FT17:50発のダイヤモンドフェリーに乗船する。この時期、九州に向かうライダーは私1人だけであった。

 ダイヤモンドフェリーを利用するのは4年ぶり。1998年九州ツーリング以来だ。今回も2等寝台を予約した。ダイヤモンドフェリーの場合はベット内に棚がある。これはありがたい。これで伸び伸びと足を伸ばして寝ることが出来る。

 この年は、阪神タイガースの監督に星野監督が就任した年だった。就任した途端、開幕7連勝。大阪の新聞、ラジオは『これで今年は優勝や〜』といつものパターンで盛り上がっていた。在阪球団なので勝ってもらいたかったのだが、新生・星野阪神タイガースは対ヤクルト戦で負けてしまい(T3−Y5)、開幕8連勝はならなかった。

 その報を聞いてベットで眠りについた。

2002年4月8日(月) 【大分FT→熊本県人吉市:368km】

 午前4時半頃に起床。外は真っ暗だ。朝5時にバイキング形式の朝食を取る。午前6時、大分港に到着。外は曇っていた。初日から雨か? 実は雨ではなく霧だった。この季節の大分は早朝に霧が発生しやすいのだという。

 大分市街からR10を南下する。早朝だというのに大型トラックの姿が目立つが、犬飼町でR57が分岐すると交通量は減った。犬飼町からは走行ペースを上げる。一度は晴れた霧であったが、野津町に入ると再び霧が立ちこめてきた。シールドに水滴が付いて前が見えずらくなる。

やがて日が差してきた。すると霧はすぐさま消えて行く。太陽の光を受けて退却しているように

見えた。 

 ところで今日は新学期の始まりの日。そのため、沿道には交通安全の旗を持った人達や警官が立って、これから学校に向かう新小学1年生達を暖かく出迎えていた。交通安全週間でもあるので気を付けて走る。

 佐伯市まで来ると霧はすっかりなくなり、空には太陽が光り輝いていた。快晴の天気。絶好のツーリング日和となった。佐伯市からはR388に入る。渋滞気味の佐伯市街を抜け、交通量の少ない2車線道を快走する。畑野浦TNを抜けると大分県蒲江町に入り、リアス式海岸沿いにウネウネと進むようになる。思った以上に距離があり時間がかかる。

 9時前に蒲江町丸市尾浦に到着。ところがR388の大分・宮崎県境は大規模な土砂崩れでで通行止め。r122と広域農道に迂回を指示される。

 ここで荷物を満載した自転車に乗ったかなり年配のチャリダーさんに出会う。北海道札幌市に住んでおられる「古希爺」こと水科さんだ。聞くと、定年となった後に「日本の道」に興味を持たれ、それがきっかけで自転車で『日本一周』をしたくなったとか。65歳より体力トレーニングなどの準備を始め、『古希』となった70歳を記念して自転車での日本一周を目指し、4月1日に福岡入りして『旅』を開始されたとのこと。海岸線沿いに回っておられる最中だとか。「古希」ということで年齢は70歳なのだが、60歳代の方かと思ったほど若く、元気なお方であった。旅の安全と日本一周を実現されることを祈ります。

 宮崎県に入ってからもR388をひた走る。宮崎県東臼杵郡南郷村のR388とR446交差点にある『つづらん茶屋』という食堂で昼飯。店を1人で切り盛りしていたおばちゃんとしばし話し込む。

 ネタ集めでR446を1往復した後、R388に戻る。R388の難所・大河内越えに入り、16時前に峠に到着。小刻みなカーブが連続する1車線狭路の山道。荷物満載のZRX1100ではかなりしんどかった。こんなに大きな峠を越えても椎葉村。1998年にR265、昨年にR327を走り、これで椎葉村を走る国道を全て走ったことになったのだが、改めて椎葉村の広さと秘境さを実感した。こんな山中でも郵政カブが元気に走り抜けて行った・・・

 湯の山峠を越えると熊本県に入る。この頃から雲行きが怪しくなる。湯山温泉に立ち寄り、九州1湯目とする。ここでは同じ市内に住む方と出会う。これから大分県佐伯市まで走り、フェリーで四国へ渡って高速道路で大阪府某市まで帰るとか・・・ご無事を祈る。

 温泉を出ると雨がパラつき始めた。湯前に出てR219で人吉市へ。本日の宿である『ビジネスホテル三浦屋』に到着したのは19時前であった。ここは公衆温泉浴場のある民宿で、夕食の後、温泉へ入り今日一日の疲れを癒した。

☆★☆ 祝!日本一周達成! ☆★☆

 大分県蒲江町で出会った「古希爺」こと水科さんとは4月13日にも再会するのですが、それっきり会うこともなく月日が流れて行きました。帰阪後も近畿の海岸沿いの道で再会しないかと期待して走っていたのですが、会うことはありませんでした。4月以後の消息が分からず心配しておりましたが、2002年11月にハガキをいただきました。

 その後も順調に旅を続けられ、2002年10月24日夕刻に、無事にゴールの札幌市役所前に到着されたとのことです。全行程12300kmを自転車で見事走破され、『日本一周』を達成されました。おめでとうございます。 

 『70歳ノンサポート一周達成』の記録として、ギネスブックに登録されるそうです。やる気さえあれば、年齢に関係なく『夢』を実現できるということでしょう。こんなに元気なお年寄りがおられるのはうれしい限りです。

◆古希爺さんの日本一周の記録はこちら

【写真】大分県蒲江町のr122上にて4月8日(月)撮影。日本一周を始められて7日目のことでした。

2002年4月9日(火) 【熊本県人吉市→鹿児島県姶良郡牧園町『新燃荘』:206km】

 午前6時半頃に起床。宿の温泉に入り朝食を頂く。9時半頃に出発。まずは人吉市内にある公衆温泉浴場の元湯に向かうが定休日で休み。11時から営業する中央温泉に入ることにして、その間に湯前町まで戻る。

 フルーティロードという広域農道を走って湯前町へ。天気は持ち直し快晴になる。湯前町では、通称『猫寺』と呼ばれるお寺を目指すが、場所が分からない。地元の方に何度も場所を尋ね30分かけてようやく到着。門から入ると、残念なことにお寺の建物が修復中で見ることが出来なかった。門だけ見て人吉市街に戻る。

 中央温泉に入って13時頃に人吉市を離れる。九州自動車道に入り南下。再び宮崎県に戻る。宮崎自動車道に入り小林ICで下りる。次に立ち寄ったのが日本一怪しい公園ダルマの里。到着すると、『ぶたのなる木』が出迎えてくれる。大阪朝日放送の人気番組『探偵!ナイトスクープ』で取り上げられた『宮崎のパラダイス』である。独創的なからくり人形が所狭しと展示されている。ここは是非とも現地に足を運ばれてご覧されることをお勧めします。

 ここの主人と30分ほど話した後出発。今日の宿は韓国岳を挟んだ反対側にある国民宿舎『新燃荘』。えびのスカイラインを走ればすぐ着くので、もう少し寄り道して向かうことにする。

 小林市街に戻りR223に入る。途中にある湯之元温泉に寄ると、鹿児島県国分市にハヤブサライダーと出会う。今ツーリングで初めて話したライダーさんだった。

 R223で時計回りに進む。途中にあったラーメン屋『一新』で薩摩ラーメンとライスで夕食。牧園町丸尾地区の町中にあったコンビニに寄って明日の朝食を購入する。

 r1に入り急勾配・急カーブが連続するワインディングロードを走って『新燃荘』に向かった。『新燃荘』に到着したのは18時半。6年ぶりの宿泊だが、建物も周囲の風景も全く変わっていなかった。日が暮れて落ち着いてから温泉へ。乳白色の硫黄泉に入り疲れを癒す。混浴の露天風呂では、初めて若いねーちゃんと一緒の湯船に入ったのであった。(^^;)

☆★☆ 彷徨猫的観光案内 ☆★☆ 

猫寺

 正式には「千光山生善院」という名のお寺です。

『相良(さがら)家の化け猫騒動』にまつわるお寺

として有名です。

 道路から少し入った小さな丘の上に建っていま

す。階段を上ると門があり、黒白班の猫様(狛

猫?)が2匹鎮座しておられます。その間を抜けて

境内に入ると、本堂と観音堂があります。観音堂

は、厨子と共に国の重要文化財に指定されてい

ます。

 私が訪れた時は、観音堂は解体改修工事の真

っ只中で、周囲はブルーシートで囲われていたの

で、見ることはできませんでした。(改修工事は2

002年8月末に終了しています。)

●アクセス

 熊本県人吉市内よりr33(県道人吉水上線)を

水上方面に約22kmです。小さな看板があります

が、見逃しやすいので注意して下さい。

●『相良家の化け猫騒動』

 1582年(天正10年)、人吉の相良家19代当主相良忠房(わずか十歳)が、水上村の普門寺の

僧・盛誉を謀反の罪にて、家来に殺害を指示。寺も

焼き払いました。

 ところが、この噂は根も葉もない作り事で、盛誉

は無実ながら殺害されてしまったのです。

 盛誉の母玖月善女(げんぜんにょ)は、これを恨

んで相良家に復讐を誓い、かわいがっていた猫の

玉華(たまたれ)と共に市房神社に籠もり断食祈

祷。空腹の猫に自らの血をなめさせ(一説には自

身の小指を与えた)、相良家末代まで祟るよう言

い聞かせたそうです。そして愛猫と共に川に身を

投げました。

 その後、藩主忠房が13歳で死去するなど、盛誉

の殺害に関与した家来や相良家一族に次々と祟

りと思われる出来事が起こりました。お城ではいろ

いろとお祈りをするのですが、不思議な出来事は

続きました。

 そこで1625年(寛永2年)、20代当主長毎が、

普門寺跡地に「生善院」を建立。観音堂を建立して

盛誉と母・玖月を祭り、盛誉の命日(3月16日)、

母・玖月の命日(4月28日)には当主自らがお参

りをし、人々にもお参りすることを命じました。する

と祟りは無くなったと言うことです。

 それ以来、人々は、このお寺を「生善院・猫寺」と

呼ぶようになったと言うことです。

日本一怪しい公園『ダルマの里』

 宮崎自動車道小林ICから、えびの高原に向かう

r1(えびのスカイライン)沿いにあるのが『ダルマ

の里』。大きな招き猫と「ブタのなる木」が目印で

す。

 数々のテレビ番組で紹介された所で、大阪の

『探偵!ナイトスクープ』では『宮崎のパラダイス』

として放送されました。

●独創的な造形物

 ここに展示されている数々の造形物。ダルマや

ブタなどいろいろな人形、「バンジー美女」などの

からくり人形が、ところ狭しと展示されています。

 内部の写真はお見せすることはできませんが、

どれも大変ユニークで遊び心で一杯です。子供の

頃に戻って見てみると楽しめます。

●ご主人

 オーナーの「怪しいおじさん」とお会いして30分

ほど話しました。にこにこした方ですが、「苦労され

たのだな」いう印象を受けました。

 昔は年商1億円という会社を経営されていたそう

です。ところがバブルが弾けて無一文となり、「天

国」から一気に「地獄」に・・・

 その後、いろいろあって現在の地に「ダルマの

里」を開園されたそうです。ここは3代目のようで、

廃ドライブインを借りて(購入して?)開園。展示品

は全て廃材を利用したので、展示品の材料費は0

円。かかった費用は数万円だけだったそうです。

 夢は、ここのキャラクター、ブタの「ぶ〜たん」を中

心としてディズニーランドのようなテーマパークを作

ること。夢があれば、どんな状況であっても立ち直

ることが出来るということです。なんか元気になるこ

とが出来るテーマパークです。

◆営業時間 9〜19時(冬期は18時まで)

◆不定休

◆入園料 大人300円/子供200円

◆駐車場 有り

2002年4月10日(水) 【鹿児島県姶良郡牧園町『新燃荘』→鹿児島県指宿市『圭屋YH』:195km】

 午前6時起床。誰もいない露天風呂に浸かったあと、自室で昨日買ったパンを食べて朝食とする。午前8時半頃に出発。一度宮崎県に戻り、白鳥温泉下湯つづいて上湯と2つの温泉に入る。この日は朝から寒かったが、この2つの温泉に入ったおかげで温まる。

 鹿児島県に戻りR223を南下。途中にある塩浸温泉に入ったは11時半ごろ。午前中だけで3湯も入ったことになる。塩浸温泉は、坂本龍馬が日本初の新婚旅行に訪れたという由緒ある温泉。ホテルの正面玄関前には、坂本龍馬とその妻お龍の銅像が立っている。

 寺田屋襲撃事件の後、妻お龍と新婚旅行で鹿児島入りした龍馬は、霧島を目指して北上。 

1866年(慶応2年)3月17日、塩浸温泉に到着し、以後11泊宿泊して傷を癒したという。二人は、今は私用されていない露天風呂に入ったと伝えられており、今でも露天風呂が残されている。(入浴することはできない。)

 塩浸温泉では『福祉の里会館』の内湯ではなく、『鶴の湯』という公衆温泉浴場に入った。地元の方に、「龍馬はこの浴槽に入ったんだ」と地元の言葉で説明してもらい、龍馬が入った(であろう)湯船に入る。歴史上の人物と同じ風呂に入ることが出来た。

 塩浸温泉を出た後はR223をひたすら南下して隼人町まで下る。隼人町からは、鹿児島湾(錦江湾)を右側に見ながらR10〜R220を南下。たえず桜島を眺めながら走ることになる。この道は1996年(平8年)4月の九州ツーリングでも走ったことのある道だ。R220の山側には国鉄大隅線が走っていたが、1987年(昭62年)3月14日に廃止されてしまった。その線路跡は自転車道や歩道などに姿を変えたが、トンネルなどは一部残ったままである。全通後、わずか10年ほどで廃止された『悲劇の路線』は、静かに消えようとしていた。

 R220を進むにつれて桜島が大きくなって迫ってきた。桜島は今も活動を続ける活火山。幾度かの噴火の後に一つの島になってい桜島であったが、1914年(大正3年)1月12日に始まった「大正噴火」で、流れ出た溶岩が瀬戸海峡を埋め立て、大隅半島と陸続きになった。大隅半島と接合した付近からr26(県道桜島港黒神線)に入り埋没鳥居を目指す。

 道の両側には固まった溶岩が間近まで迫っている。r26溶岩をぶち抜いて作られた道路なのだ。大正噴火から90年近く経過していることもあり、溶岩は風化と崩壊が進んでいる。溶岩の間からは至る所から杉の木が生えてきている。もう50年もすれば、ここは杉林と化すのだろう

か?一度は『死の大地』となっても、こうして再び『命』が根付くのだから自然の力は凄い。間近に見える桜島は、その頂から噴煙を出していた。今日も元気に活動しているようだ。

 6年前にも訪れた埋没鳥居に着く。3mほどあった鳥居は噴火によって先っぽの1mほどだけを残して埋まってしまったが、噴火の凄まじさを今に伝えている。ここではレンタカーを借りて一人旅をしている若いねーちゃんと出会う。写真を撮ってあげた。

 r26を戻ってR224に入り、桜島の南岸を通って桜島港に向かう。r26ほどではないが、R224も間近まで固まった溶岩が迫っていた。『桜島爆発の噴石が落下する恐れがあるので、通行に注意して下さい』という注意書きを見た時は、妙に納得してしまった。

 R224を走り、古里観光ホテルの温泉に立ち寄る。混浴露天風呂では龍神様が住んでおられるという大木が祀ってあるので、失礼ないよう入浴客は浴衣を着て入らなくてはならない温泉なのだ。ここではよそ見していたので、浴槽内にあった石につまづき思いっきり転けてしまった・・・

 R224を走ってフェリー乗り場へ。桜島と鹿児島市街との間はフェリーが24時間運行されている。バスや路面電車を利用するような感覚で利用することが出来るのだ。高速の料金所のような改札を抜けて乗り場へ向かい桜島フェリーに乗船。名物うどんを食べた後、フェリー甲板から離れ行く桜島を眺める。数分で鹿児島港に到着。港周辺は6年経っただけで大きく変貌していた。

 鹿児島市街からはR225〜R226をひたすら南下。夕方の帰宅ラッシュにハマってしまい大渋滞の中、指宿に向かった。 

 指宿に到着したのは18時半前。今日は指宿にある『圭屋(たまや)YH』に宿泊する。到着が遅くなったので夕食はない。6年前も食事した近くの中華料理屋まで歩いて向かう。指宿は2002年ワールドカップのフランス代表チームの合宿地になったので賑わっているのかと思っていたが、メインストリートは人気はなく寂しい限りだった。閉じたままの店や閉鎖されているホテルもあって、イメージしていたのとはほど遠い姿を目の当たりにする。観光客が少なくなっているのだろうか? 

 10分ほどで中華料理屋に着き、そこで夕食を取る。その帰りは指宿温泉『砂楽』に立ち寄る。浴衣に着替えて砂蒸し風呂に向かう。横たわり砂を掛けてもらってじっとする。ところが尻の辺りだけがジリジリと熱くなってきた。5分ほど我慢していたが、

異常に熱くなり思わず土を払いのけて飛び上がってしまった。「我慢せんでも良かったのに」とおばちゃんに言われて、少し場所を移動してもう一度砂を掛けてもらった。

 内湯で砂を落としてYHに戻る。今日一日だけで5湯に入ったのでクタクタだった。この日の晩は、私の他には、明朝に屋久島に向かうという大阪のねーちゃんが1人いるだけ。明日早いというのでねーちゃんは早くに上がる。ペアレントと少し話した後、部屋に戻り23時過ぎには寝てしまった。

☆★☆ 彷徨猫的観光案内 ☆★☆ 

桜島

 『鹿児島と言えば桜島』と言われるほど有名な桜

島は、現在も活動を続けています。阿蘇山を北端

とし、薩南諸島・琉球諸島に至る霧島火山帯に属

する活火山です。一つの火山ではなく、北岳・中

岳・南岳の中央火口丘といくつかの寄生火山から

出来ています。

 記録によると、桜島は過去3回大噴火を起こして

います。文明年間(1471〜76年)、安永年間

(1779〜82年)、そして大正3年(1914年)で

す。噴火の度に、流れ出た溶岩でだんだんと大き

くなって行きました。

 大正噴火では、流れ出た溶岩によって、幅400

mほどの瀬戸海峡を埋め立てて大隅半島と陸続

きになりました。

 現在の噴火活動は、1955年(昭30年)10月

から始まっているそうです。50年近く噴火し続けて

いることになります。 

埋没鳥居

 1914年(大正3年)1月12日に始まった「大正

噴火」で噴出した溶岩や軽石・火山灰によって島

の北東部〜東部は大きな被害を受けました。

 瀬戸海峡が溶岩で埋まり大隅半島と陸続きにな

った他、北東部にある黒神地区にも溶岩や火山灰

によって全687戸が火山灰に埋もれてしまいまし

た。

 黒神地区にあった原五社(はらごしゃ)神社の鳥

居は、笠木の部分を残して全て埋没。高さ約3m

の鳥居は、1mほどだけを地表に出したままとなっ

たのです。

 一時は掘り起こそうという話があったそうです

が、時の野添村長は、爆発の凄まじさを後世に伝

えるために発掘の中止を指示。その姿のままで現

在に至ります。

 1958年(昭33年)鹿児島県文化財に指定され

ました。

●場所:鹿児島県鹿児島市黒神町

 桜島町かと思っていたのですが、埋没鳥居は鹿

児島市に属しています。市立黒神中学校横にあり

ます。埋没鳥居の奥に神社があり、この参道を挟ん

で中学校の校舎が向かい合っています。

 桜島港よりr26を時計回りに。約19kmです。

●駐車場:近くの空き地が駐車場のようです。観光

バスが通るので、道路には車は停めないい方が良

いでしょう。黒神中学校前バス停下車。

2002年4月11日(木) 【鹿児島県指宿市『圭屋YH』→鹿児島県指宿市『圭屋YH』:0km(バイクに乗らず)】

 この日は朝から雨だった。雨の中、バイクで移動する気はないので、レンタカーを借りてあちこち回ることにする。後半に指宿に滞在するようにしたのは、雨の場合、レンタカーを借りることが出来るようにしておきたかったからだが、その読みは残念ながら見事的中したのだった。

 トヨタレンタカーに行きトヨタの「Vitz」を借りる。指宿市街を抜け、雨の中R226を北上。まずは二月田にある『殿様湯』に寄る。

 ここは歴代薩摩藩主が入浴したという歴史ある温泉。今は公衆浴場となっているが、湯船に薩摩藩の家紋が彫ってある。湯は少し熱めの湯。床や浴槽は温泉の鉱物成分がこびり付いて茶色く着色していた。

 ここにある歴代藩主専用の湯船は、浴室建物の裏手にあった。建物はなくなっており、湯船だけが残っていた。二月田にあった『殿様湯』は、1831年(天保2年)に第27代藩主・島津斉興(なりおき)によって建てられた。源泉から湯が4つの浴槽を回る間に適温になるように設計されていたそうで、その浴槽なのか小〜中の大きさの浴槽が4つほどあった。

 薩摩藩藩主専用の温泉だけあって、床にはタイルが埋め込まれている。豪勢な造りだったのだろうか? 第28代藩主・島津斉彬も入浴したのだろうか? 鹿児島県には歴史上の人物に接する場所が多いものだ。

 近くには『足軽以下、是より内に入らざるべからず』という石碑が建っていた。藩主専用の湯であったことを今に伝えている。

 『殿様湯』を出た後、R226を北上してR225に入る。川辺峠を越えて川辺町に入り、そこから知覧町へ向かう。12時前に『知覧特攻平和会館』に到着。

 ここにはZRX1100のご先祖にあたる旧帝国陸軍航空隊の三式戦闘機『飛燕』、そして陸軍航空隊の戦闘機の傑作機として、戦後アメリカ軍に絶賛された四式戦闘機『疾風(はやて)』の実物が展示されている。会館に入って知ったのだが、他に戦後海中より引き上げられた旧帝国海軍の零式戦闘機『零戦』の機種の部分がそのままの姿で展示されている。

 正面玄関から入ると、ロビー正面の壁に『知覧鎮魂の賦』という絵が飾られている。炎上する1式戦『隼』より6人の天女によって引き上げられる特攻隊員の魂の姿が描かれている。その絵を見ただけで身が引き締められた。

 さて、平和会館内には大東亜(太平洋)戦争末期の1944年(昭19年)に始まった特別攻撃で亡くなられた旧陸軍航空隊の約1000名の特攻隊員の英霊の遺影・遺書・遺品が展示されている。その1つ1つを時間をかけて丹念に見て回る。

 特別攻撃隊に参加された隊員のほとんどが(当時の年齢で)20歳前後。自分よりも年下の人

達が書いたとは思えない、しっかりとした字で書かれた遺書は、とてもこれから死に行かれる方々が書かれたとは思えない内容だ。手紙(遺書)には、「必ず敵艦を轟沈してくる」とかいう文章の他、両親や妻子への最後の言葉が書かれている。中には俳句を書いただけの方もおられた。それらの手紙(遺書)を読んで共通して感じたことは、隊員の方々はこれからの(将来の)日本のことを考えておられたこということだ。『日本の将来を、郷里や両親・妻子を、自分達が戦わずして誰が護ってやれるのか』ということを感じた。

 遺品も一つ一つ見て回る。その中の一つに思わず釘付けになる。その一つとは、日の丸が描かれた鉢巻。日の丸の赤の他に、どす黒いシミが付いている。それらはもちろん隊員の方の血であるとすぐに分かった。この鉢巻、特攻機が突入した空母の乗組員が拾って『記念品』としてアメリカに持ち帰っていた物で、戦後になって遺族の元に返して欲しいと返還されたものだそうだ。鉢巻を付けておられた隊員の御霊も一緒に帰国されたに違いない。

 かなり長い時間をかけて館内を一巡する。展示室の出口で頭を下げて展示室を出る。ロビーにある感想ノートを見てみると、『今日、初めて父親の姿を見ることが出来ました』と書かれていた・・・ ここは「過去の日本」と「今の日本」を、なんのノイズもなく純粋に繋ぐ場所の一つなのだ。

 外に出て館の隣に復元された三角舎(出撃前の隊員が一夜を明かす兵舎)の中に入ってみる。雨が降っていたのでかなり寒い。ここに布団を敷き寝起きし、出撃まで過ごした場所だ。板間に座り、隊員の方々がどんな心境で過ごしたのだろうかと考える。だが、今の日本に生まれ育った私には、想像することすらできなかった。

 駐車場に戻り車に乗り込む。気分はかなり落ち込んだ。気を取り直して、車を運転して雨の中を加世田市に移動し、次の目的地である『加世田市平和祈念館』に向かった。

 知覧があまりにも有名すぎるのであまり知られていないが、『加世田市平和祈念館』とは吹上浜に作られた旧帝国陸軍航空隊最後の航空基地となった万世飛行場(基地)についての資料館だ。万世飛行場に関する展示がメインなのだが、ここにも特攻関係の展示室がある。(必然的にそうなってしまう・・・)

 訪れた時は私1人だけ。1階ロビーには吹上浜から引き上げられた旧海軍航空隊の零式水上偵察機(注:零戦とは全く違う別機種です。)がそのままの姿で展示されていた。2階に上がると、終戦直前の4ヶ月だけ使用された『幻の特攻基地』と言われた万世飛行場から飛びだった201名の隊員の遺影が、出撃日順ごとに整理され飾られている。飛行場の資料や飛行教本、基地からの手紙などの他、遺書や遺品が展示されていた。知覧とは違い、広い展示室には私1人しかいない。201名の隊員の目が全て自分に向いているような心境になる。

 知覧に行かれた方なら覚えていると思うが、出撃前に子犬を抱いて笑っているあどけない表

情の特攻隊員の写真がある。特攻隊最年少の17歳を含めて17〜19歳のまだ少年の面影の残る隊員の方々の写真だ。所属していたのが第72振武隊で、ここ万世飛行場から1945年(昭20年)5月27日に出撃されている。今で言う高校生が・・・ 今の高校生とは比較にならない・・・

 将来の日本のことを思い出撃された方々に感謝の念を抱き、万世の資料館を後にする。

 加世田を離れて枕崎に出る。ここからR226を指宿方面に走る。途中でコンビニに寄って遅めの昼食を購入。その後、開聞岳の麓を走るが雲がかかって頂上は見えなかった。すぐ近くにある開聞温泉に立ち寄ると、夕方ということもあり地元の方々で混雑していた。

 混雑した脱衣室で服を脱ぐ。浴室に移動して浴槽に入った。めちゃくちゃ熱い・・・ 思わず飛び出てしまった。すると近くにいた地元の人が『にーちゃん、土地の者やないやろ。ここの者やったらいきなりそっちの(熱い)浴槽に入らないで』と笑いながら話しかけてくれた。私が入ったのは熱い湯の浴槽の方だった。改めて適温の浴槽に入り直し、赤茶けた湯で体を温め開門温泉を後にした。

 指宿に戻り、夕食を食べに『くりや食堂』に向かう。ここでかつおのたたき定食を頼む。かつお1匹分がそのまま出たという感じで、すごいボリュームだった。ご飯付で900円。ツーリングの時にはお勧めの食堂だ。ちなみに1泊2食付で1900円という値段で宿泊も出来る。

 19時過ぎにレンタカーを返却。店のヒトがわざわざYHまで送って下さった。YHに戻った後、近くにある指宿温泉公衆浴場の元湯に入り、一日の疲れを癒した。

2002年4月12日>>

☆★☆ 彷徨猫的観光案内 ☆★☆ 

知覧特攻平和会館

 旧帝国陸軍航空隊知覧飛行場跡地に建設され

た陸軍の航空特別攻撃に関する施設です。

 館内には、陸軍航空隊の特別攻撃に参加され散

華(さんげ)された1036名の隊員の方々の遺影、

遺書、遺品が展示されています。

 他にも、三式戦『飛燕』、四式戦『疾風』の完全な

本物や、機首部分だけの『零戦』、個人の方が作り

上げたというレプリカの一式戦『隼』やセスナ機のレプリカや飛行機の模型などが展示されています。

 また、明治から始まる旧日本帝国陸軍の軍服な

どの展示もあり、特別攻撃隊だけでなく、旧帝国陸

軍の資料も揃っています。

 毎年5月3日には、『知覧特攻基地戦没者慰霊祭』が行われます。

●知覧飛行場

 鹿児島県川辺郡知覧町には、1941年(昭16

年)12月末に日本帝国陸軍知覧飛行場(正式に

は大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所)が開設(開

校)されました。

 陸軍航空隊の搭乗員養成のための飛行場でし

たが、1945年(昭20年)に入ってからは、日本

本土最南端の陸軍飛行場であることから、陸軍

特別攻撃隊の主要発進基地となり、知覧飛行場

からは436名の特別攻撃隊の方々が発進され、

そして散華されました。

●知覧特攻平和会館沿革

 1975年(昭50年)に開館した『特攻遺品館』が

前身。1982年(昭57年)に改装と共に、三角舎

が復元。その後、展示資料物の増加に伴い、19

87年(昭62年)に『平和会館』として新築開館し

ました。

●平和公園

 平和会館に隣接してあるのが平和公園です。

ここには「平和観音堂」や「平和の鐘」などがあり

ます。敷地内や平和記念通りには、1036柱の

石灯籠が建っています。

◇特攻平和観音堂

 特攻隊隊員の方々の崇高至純の殉国精神を顕

彰し、御英霊をお慰め申し上げ、世界の恒久平和

を祈念するために、1955年(昭30年)9月に建

立されました。

 有志一同の浄財で持って建立され、中には観

音像様を安置祀されています。観音像の体内に

は、特別攻撃隊に参加された御英霊の御芳名が

記された巻物が入っています。

◇特攻銅像「とこしえ」

 1973年(昭49年)に建立された『特攻勇士の像』です。像の右手は『変わらぬ決意』を。左手は

『祖国の永遠の平和』を表現しています。

 銅像のすぐ横に展示されているのは、戦後に使

用された航空自衛隊のレプシロ練習機「T6テキ

サン」です。日の丸がついたレプシロ機ということ

だけで、旧日本軍の飛行機だとは思わないよう

に・・・(^^)

◇母の像「やすらかに」

「とこしえに母と共にやすらかに」との願いをこめて、1987年(昭61年)に建立されました。特攻勇士の像を優しく見守る母親として表現されています。

●知覧特攻平和会館

◆場所:鹿児島県川辺郡知覧町

пF0993−83−2525

◆開館時間 9:00〜17:00(入館16:30まで)

◆年中無休。都合により休館することがあります。

◆入館料:500円

●交通

>鹿児島空港より

 鹿児島交通バス「加世田」行き乗車。約75分。

知覧バス停下車。

>鹿児島市市内より

 山形屋バスセンターより鹿児島交通バス「知覧」

行き乗車。知覧バス停もしくは特攻観音入口バス

停下車。

>指宿市内より

 JR指宿駅前より鹿児島交通バス「知覧」行き乗

車。特攻観音入口バス停下車。

注意>>知覧バス停からだと距離があるので、徒歩

(約25分)もしくはタクシー乗車となります。

○問い合わせ先

知覧町役場観光課 пF0993−83−2511

鹿児島交通バス

 本社 пF099−553−0121

 山形屋バスセンター пF099−222−0128

 加世田営業所 пF0993−53−2102

加世田市平和記念館

 鹿児島県加世田市には県立吹上浜海浜公園と

いう公園があります。この公園敷地の多くは、旧帝

国陸軍万世飛行場でした。

 加世田市平和記念館は「帝国陸軍航空隊最後の

飛行場」として、終戦までのわずか4ヶ月だけ使用

された”幻の”万世飛行場についての資料館とし

て、1993年(平5年)に開館しました。

 建物の外観は、旧陸軍の九五式練習機こと通称

『赤とんぼ』をイメージしてデザインされています。

 1階には吹上浜より引き上げられた、旧帝国海軍

零式水上偵察機がそのままの姿で展示されてい

ます。また万世飛行場より飛びだった三菱九九式

襲撃機(キ−51)の模型も展示されています。

 2階に上がると万世飛行場の営門を模した入り口

があって展示場に入ります。ここには日常使用され

た用具や手紙、教本などが展示されています。

やがて遺書・遺品などの展示コーナーへ・・・血書

も展示されています。

 展示室の壁には201名の隊員の方が遺影が飾

られ、第72振武隊の写真パネルも飾られていま

す。

 記念館の前庭には、万世特攻慰霊碑「よろずよ

に」が建立されており、毎年4月第2日曜日には、

『万世特攻慰霊祭』が開催されます。

 『特別攻撃隊の基地といえば知覧』と言われる

ほどで、こちらの万世飛行場については、ほとんど

知られていません。あまり知られていない記念館

で来訪する人は少ないのすが、その分静かに見る

ことが出来ます。

●万世飛行場

 日本本土最南端の陸軍飛行場として戦略上重

要な飛行場となった知覧飛行場の補助飛行場とし

て1943年(昭18年)頃に建設が開始され、翌44

年(昭19年)8月に完成しました。1945年3月よ

り部隊が配置されて実戦飛行場となり、同年4月

より特攻基地として機能するようになりました。

 万世飛行場は滑走路の状態が悪いので、固定

脚機でないと離陸が難しいことなどもあり、ほとん

ど固定脚機の出撃基地となっていたそうです。

 終戦までのわずか4ヶ月ほどの間に、万世飛行

場からは201名の特別攻撃隊の方々が発進さ

れ、散華されました。

●加世田市平和記念館

◆場所:鹿児島県加世田市高橋

п@0993−52−3979

◆開館時間 9:00〜17:00(入場16:30まで)

◆開館日 12月31日・1月1日を除く毎日

◆入館料 大人300円

●交通

○バイク・車

 加世田市内よりR226を笠沙町方面へ。慰霊塔

下交差点を右折してr20へ。あとは案内通りに進

めば到着します。海浜温泉か吹上浜海浜公園を

目印にして行けば良いでしょう。

○バス

>鹿児島空港より

 鹿児島交通バス「加世田」もしくは「枕崎」行き乗

車。約75〜100分。加世田バス停下車。

>JR鹿児島本線伊集院駅、西鹿児島駅より

 鹿児島交通バス「加世田」行き乗車。加世田バ

ス停下車。

 加世田市内線のバスに乗り換え、海浜温泉前

バス停下車すぐ。詳しくは問い合わせて下さい。

○問い合わせ先

加世田市役所(代表) п@0993−53−2111

鹿児島交通バス

 枕崎営業所 п@0993−12−3311

 加世田営業所 п@0993−53−2102

■展示機の経歴>>スペースがなくなったので独立させました。

●知覧特攻平和会館

飛燕

 三式戦闘機『飛燕』(キ−61)。川崎が制作した帝国陸軍戦闘機。1941年(昭16年)12月に1号機が完成し、翌42年(昭17年)8月に「三式戦闘機

一型」として陸軍に制式採用されました。当時唯一の液冷式エンジンを積んだ機体でした。

 1944年(昭19年)2月には、主翼を改造しエンジンを「ハ−140」に変更した「三式戦闘機二型改」が登場しました。しかし、エンジンの生産が間に合

わなかったことから、エンジンを空冷式の「三菱ハ−112」に載せ替えた機体が誕生。こちらは「五式戦闘機(キ−100)」として陸軍に採用されていま

す。

 知覧基地より49機、そのほかの基地も含めると全部で103機が特別攻撃機として出撃しています。

●展示機の経歴

 知覧に展示されているのは「三式戦闘機二型改」です。

 この機の経歴は2つあります。

@飛行第五六戦隊所属機で伊丹基地(大阪)で終戦を迎えた。アメリカ本国に移送される予定だったのが、脚が折れたため移送されず日本に返還。富

 士重工で保存された後、航空自衛隊岐阜基地に移管され保存されていた。富士重工に保存されている頃までは飛行可能な状態だったという話もあり

 ます。(税務署の指示で飛行出来なくなったとかいう話も・・・)

A福生飛行場(東京都)でアメリカ軍に捕獲。米軍横田基地となった後も戦利品として扱われた。1953年(昭28年)12月に日本航空協会の所有とな

 り、日本のあちこちを回った後、航空自衛隊岐阜基地に移管・保存された。

 経歴がどうであれ、現存する唯一の『飛燕』ということで大変貴重な機体です。現在、この機体は日本航空協会が所有しています。

疾風

 四式戦闘機『疾風(はやて)』(キ−84)。一式戦闘機『隼』を生み出した中島飛行機が制作した帝国陸軍戦闘機。1943年(昭18年)3月に1号機が

完成し、以後改良・試験などが行われ、1944年(昭19年)4月に四式戦闘機『疾風』として制式採用されました。

 しかしながら、エンジン(ハ−45型)の調子が今ひとつで性能が十分に発揮されないこと。またハイオクタンのガソリンを必要としながらも十分に確保で

きなかったことなごから、稼働率は低い状態でした。

 戦後、アメリカ軍は140オクタンのガソリンを使用してテストしたところ、最高速度689キロを記録。『日本最速の戦闘機』として絶賛されました。

 知覧基地には40機の『疾風』が駐留(一部は徳之島基地駐留)。特別攻撃機の直掩・誘導、敵機の追撃任務に就きました。特別攻撃機としての『疾

風』は、宮崎県都城東ならびに都城西基地を中心に出撃し、118機が未帰還となっています。うち4機は知覧基地から出撃しており、2機が未帰還となっ

ています。

●展示機の経歴

 展示されている『疾風』は、1945年(昭20年)1月、フィリピンに進攻してきたアメリカ軍によって捕獲された機体です。フィリピン・クラーク空軍基地にお

いて試験飛行が行われた後、戦後、アメリカの私設博物館(プレーンズ・オブ・ヒューム)に飛行可能な状態で払い下げられました。

 1973年(昭48年)、日本で里帰り飛行が行われました。その後、日本の愛好家が購入。栃木県宇都宮市から京都嵐山美術館(現在閉館)を経て、

知覧特攻平和会館に展示されるようになりました。残念ながら、嵐山美術館に引き渡される段階で飛行能力はなくなったそうです。

 この『疾風』は、現存する唯一の完全機として大変貴重な機体です。

零戦

 零式艦上戦闘機。日本帝国海軍の主力戦闘機です。あまり飛行機に興味のない方でも、『ゼロ戦』と聞けば分かるぐらいに有名な、太平洋戦争におけ

る日本の代表的な戦闘機の一つです。

 1940年(昭15年)7月に帝国海軍艦上戦闘機として制式採用され、以来5年間、海軍の主力戦闘機として活躍します。大東亜(太平洋)戦争初期は

圧倒的な強さを誇り、「向かうところ敵なし」という状態でした。

 しかし、1942年(昭17年)アリューシャン列島に不時着・大破した機体をアメリカ軍が捕獲・修理。徹底的なテストを重ねてデータを得、対抗機を誕生

させたこともあり、戦争中期以降は徐々に劣勢となりました。生産機数は一万機ほどもあったことから、戦争末期は250キロ爆弾を積み、海軍の特別攻

撃機の主力として散っていきました。

 長く生産されたこともありバリエーションは多く、初期の一一型、空母搭載を考慮した翼となった二一型、翼端の形を変えた三二型、エンジンの形状を

変えた五二型、戦闘爆撃機型の六三型などが登場。それぞれの型でも改良を重ねて何種類かのタイプ(甲乙丙)が作られています。

 日本や世界各地に比較的多く残っており、アメリカなどでは(レプリカも含めて)飛行可能な零戦もあり、熱狂的なファンがいるようです。

●展示機の経緯

 展示されている零戦は五二型丙。操縦席に防弾板を装備し、機種の機銃を廃し主翼の20ミリの外側に13ミリ機銃を増設し、小型ロケット弾を発射可

能にしたタイプ。

 展示機は1945年(昭20年)5月、沖縄作戦(菊水作戦?)中にエンジントラブルのために、鹿児島県沖の甑島(こしきじま)列島の下甑島、下甑村に

ある手打湾沖に不時着・沈没した零戦です。手打港沖約500m、水深35mの海底から1980年(昭55年)6月に知覧町が主体となって引き揚げられま

した。

 展示機は復元されることもなく、引き揚げ当時の姿のまま展示されています。

●加世田市平和記念館

零式水上偵察機

 『零式』と付くからと言って『ゼロ戦』と勘違いしないで下さい。まったく別の機体です。『零戦』と同じく1940年(昭15年)すなわち皇紀2600年に帝国

海軍に制式採用されたので、1桁の数字から『零式』と命名されたのです。

 「零式水上偵察機」は、その名の通り偵察機です。愛知という航空機メーカーが開発したフロートが付いた水上偵察機で、制式採用された水上機として

は初の低翼単葉機でした。

 今のような偵察衛星がない時代、航空機による偵察は艦隊にとっては重要な情報収集でした。まさしく艦隊の『目』となっていました。零式水上偵察機

は、実用性が高いことから艦隊ではかなり重宝され、太平洋戦争を通して活躍しました。1941年(昭16年)12月の真珠湾攻撃の時、攻撃前の真珠湾

を直前偵察し天候を報告したのは、この零式水上偵察機でした。戦争末期は、日本本土周辺の対潜哨戒機としてまた夜間偵察機として使用されまし

た。

参考までに>>『零戦』にフロートを付けて水上機としたのは『二式水上戦闘機』です。また海軍には『零式小型水上偵察機』という機体もありますが、この

        機体も『零式水上偵察機』とは全く別の機体です。

●展示機の経緯

 展示機は、元々は第六三四航空隊・偵察三〇二飛行体に所属していました。1945年(昭20年)6月4日、沖縄方面の夜間索敵のために福岡の基地

を発進。任務終了後、帰還途中で敵の追撃を受け応戦。戦闘から離脱後、燃料切れで鹿児島県吹上浜沖に不時着・沈みました。搭乗員3名は田布施

海岸に泳ぎ着き生還しています。

 この機体は1992年(平4年)8月3日に引き揚げられました。引き揚げ後、加世田市平和記念会館に引き揚げ当時のままで保存・展示されています。

この機体は破損したままとはいえ、現存する唯一の零式水上偵察機です。

◇◆◇ 特別攻撃隊 〜 其の壱 〜 ◇◆◇

■特別攻撃隊

 開戦当初は優勢だった旧日本帝国軍も、1942

年(昭17年)6月のミッドウェー海戦での敗北を機

に劣勢となり、1943年(昭18年)に入ると苦戦を

強いられるようになりました。

 アメリカの圧倒的な資源と物量によって、日本と

の戦力差は広がる一方。1944年(昭19年)にな

ると、通常兵器での通常による攻撃では劣勢を挽

回することは不可能と認識されるようになりまし

た。

 不利な戦局を一気に挽回する切り札として考え

出されたのが、爆弾を積んだ航空機で体当たり攻

撃を加えて確実に戦果をあげるという攻撃方法でし

た。いわゆる『特別攻撃』です。(注1)

 大東亜(太平洋)戦争末期に開始された『特別攻

撃』は、世界戦史上に前例のない体当たり攻撃で

した。1944年10月に帝国海軍航空隊の『神風特

別攻撃隊』による特別攻撃が開始され、終戦まで

の約10ヶ月の間に、陸海軍合わせて5000〜60

00名の方々が隊員として参加され亡くなられてい

ます。(注2)

 最初の攻撃では、参加した6機の零戦全てが命

中もしくは至近弾となり、敵艦に損傷を与えまし

た。なかでも隊長である関行雄大尉が搭乗する

250k爆弾搭載の零戦は、護衛空母セント・ローに

入し、撃沈(火薬庫への引火による)させるとい

う大戦果を上げました。しかし、すぐに対抗策が講

じられたことから次第に戦果を上げることは難しく

なりました。(注3)

 戦争末期には、爆弾を積んだボート(小型艇)や

潜水艇などの特別攻撃用兵器も登場し実戦に投

入されています。

●海軍特別攻撃隊

 旧日本帝国海軍航空隊による特別攻撃は、19

44年(昭19年)10月フィリピンにおいて開始され

ました。『特別攻撃』の代名詞ともなった『神風特

別攻撃隊』は、帝国海軍航空隊の部隊名です。

 海軍では主に「零戦」や「彗星」といった戦闘機・

艦上爆撃機などを『特別攻撃機』として、鹿屋飛行

場・大分飛行場などの各基地から送り出したほ

か、「桜花」という特別攻撃用の爆弾を積んだジェ

ットロケット機を開発・実戦投入しています。

 また「回天」といった人間魚雷や特殊潜航挺、「

震洋」という爆弾を積んだ小型ボートといった特別

攻撃用兵器も開発・実戦投入しています。

 旧日本帝国海軍航空隊による特別攻撃は、公式

記録としては1945年(昭20年)8月15日まで続

けられました。航空隊だけでも2535名の隊員の

方々が散華(散華)されています。

●陸軍特別攻撃隊

 旧日本帝国陸軍航空隊においては、1944年

(昭19年)11月に比島(フィリピン)航空特別攻撃

として開始されました。翌45年(昭20年)4月に連

合国軍が沖縄に上陸開始をすると、沖縄航空特別

攻撃が開始され、知覧飛行場が主要発進基地と

なりました。

 知覧飛行場を初めとして万世飛行場・都城飛行

場・大刀洗飛行場(福岡県)・健軍飛行場(熊本

県)・台湾の各飛行場より、合計1036名の特別

攻撃隊隊員の方々が発進され散華されました。

 旧日本帝国陸軍航空隊による特別攻撃は、19

45年(昭20年)8月13日までの間行われ約180

0名の隊員の方々が散華されました。

 陸軍による特別攻撃は、航空機の他にも戦車・

ボート(「四式連絡挺」による)でも行われ、1700

名近い隊員の方々が亡くなられています。(注4)

(注1)

 『特別攻撃隊』という呼称そのものは、戦争末期

の「体当たり攻撃」に対する代名詞ではありませ

ん。

 もともとは1941年(昭16年)12月の真珠湾攻

撃に参加し未帰還となった特殊潜航挺の乗組員9

人に対して与えられたのが最初です。その後、シド

ニーやマダカスカルへの攻撃に参加・未帰還となっ

た特殊潜航挺隊員にも与えられています。

(注2)

 本や資料などによって判断基準が違うのか、正

確な記録がないためか、数字がバラバラです。全

てを合わせると1万名以上の方々が亡くなられた

という説もあります。

 『知覧特別攻撃隊』という冊子によると、航空機

による特別攻撃では、海軍2535人、陸軍1844

人の隊員の方々が亡くなられたとのことです。その

多くは17〜20歳代の方々でした。

(注3)

 旧日本帝国陸海軍の特別攻撃に対する連合国

軍兵士の恐怖心は凄いものだったそうで、ノイロー

ゼになった兵士が続出したそうです。

(注4)

 特攻挺による特別攻撃は、陸軍の「四式連絡

挺」によって、1945年1月、比島において行われ

たのが最初だそうです。海軍の「震洋」はあまり出

撃していなかったとか。

「特別攻撃隊」に対する私なりの考えはこちらです。>>

2002年4月12日>>

つうりんぐれぽぉと