>>2004.03.23 Update

   

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■掃海母船うらが(MST463)

 1997年(平9年)3月に竣工した『うらが』級掃海母艦の1番艦でありネームシップ。掃海作業の後方支援を目的とした艦であるが、一方で機雷の敷設能力も有する。

 船体自体はステルス性を苦慮した設計となっている。船体後部にMH53E掃海・輸送ヘリが着艦できる広い甲板を有している。建造は日立舞鶴。所属は掃海隊群で、母港は横須賀となっている。

>>主要要目

 基準排水量 5650t(ぶんご 5700t)

 主要寸法(m) (L)141×(W)22×(D)14×(喫水)5.4

 主機械 ディーゼル2基2軸

 馬力 19500PS

 速力 22Kt

 定員 160名

★『うらが』の記事は艦艇見学オフ会(2004.02.27)のオフ会レポートとなっています。

■『うらが』艦艇一般公開

 2004年2月27日(金)、職場の上司から「うちの親父宛に来たんだけど」と一枚のハガキを頂いた。『艦艇一般公開』と書かれた海上自衛隊(以下海自)阪神基地からの案内ハガキだった。

上司:「うちの親父は行かないし、私も予定があるから行かれへんねん。良かったら行く?」

あめふらし:「はい。喜んで!」ヽ(゚∀゚)ノ<ヒャッホウ!

 即答である。目を輝かせていたに違いない。海自の艦艇はあちこちで見かけたことがあるが、実際に乗り込んだことは一度もなかった。今回一般公開されるのは掃海母艦『うらが』である。掃海母艦の姿を、しかも大阪湾内で見ることができる機会はそうあるものではない。姿を見るだけでなく、乗船できるとは千載一遇のチャンス。これは行くべき。

 駐車場のことが書かれていなかったので、ハガキに書かれた電話番号に電話してみる。海自に電話するなんて生まれて初めてだ。電話が繋がり、広報担当の方が親切に対応をしてくれた。そこらの役所の連中とは全く違う丁寧な対応に感心する。

 その後、行きそうな人にメールを送ってみる。誰もいなければ一人で行くまで。急なことなので多くの人がダメだったが、satounoさんと職場の後輩である翔鶴瑞鶴(以下、瑞鶴)の2人が参加できると返事が返ってきたので、 急遽、艦艇見学オフ会の開催が決まった。

■阪神基地へ

 28日(土)の晩から雨。(゚Д゚)オイオイ・・・ 29日(日)朝方には雨はやんだが、空は雨雲に覆われてパラパラと小雨が降る天気だった。予報では午前中には雨はあがり、昼頃から天気は回復に向かうという。こういう天気なのでバイクではなく車で向かうことにする。全くヘタれな管理人です。(^^;)

 阪神高速湾岸線(4号)に入る。日曜日だが天気が今ひとつなので交通量は少なく、湾岸線(5号)に入るとパラパラと走っている程度だった。快調に飛ばして神戸へ向かう。阪神高速の東神戸大橋にさしかかると、埠頭に横付けしている海自の船が見えた。掃海母艦『うらが』である。ここからなら俯瞰で全体像を撮影できるのだが、橋の途中に車を停めて撮影するわけにはいかないので、そのまま走り去る。

 魚崎浜出口で高速を下りて地道へ入る。阪神基地は人工島(埋め立て地)の端にある。心配した反単●平禾口団イ本の連中の抗議デモや阻止行動はなく、11:40頃に到着。係員に誘導されて基地内へ入り駐車場に車を止める。目の前には巨大な掃海母艦の姿があった。

■海上自衛隊 掃海母艦『うらが』

 11:50頃にsatounoさんが到着。一般公開の午前の部はすでに受付終了となっていた。午後の部の受付は13時からというので、受付開始まで2人でウロウロすることにする。岸壁に向かって歩いていくと、突然拡声器から「食事!」という言葉が流れた。「何時から各自適時に食事せよ」といかいうのではなく、単に「食事」と言うだけ。命令口調なのは分かるが、これ一回きりで分かるのだろうか?謎・・・。

 それはさておき、岸壁に行くと巨大な艦がさらに巨大に見える。掃海母艦『うらが』は、1997年(平9年)3月に竣工した『うらが』級1番艦(日立舞鶴にて竣工)。基準排水量5600トン、全長141m、艦幅22mと、先代の掃海母艦『そうや』『はやせ』と比べるとかなり大型化している。それでもイージス護衛艦『こんごう』級よりも少し小さい。ちなみに旧帝国海軍の戦艦『大和』の全長は約263m、最大艦幅は約38mで、『うらが』の約1.7〜1.8倍となる。

 『うらが』は艦首を六甲アイランド側、艦尾を神戸市街側に向けて停泊している。艦尾から眺めるとまず目に付くのは艦尾に掲げられた『日章旗』。帝国海軍の伝統を受け継いでいる。受け継いでいるのは旗だけではなく、『掃海』という実戦業務も引き継いでいる。参考>>こちら

 140mほど歩いて船首に向かうと、艦橋が高いことに驚く。警備員に尋ねると、艦底からだと大体ビルの5〜6階ぐらいあるという。船首から艦橋を含めて艦尾までの全体像を撮影しようとしたが、撮影場所が限られるため無理だった。やはり高速道路上で車を停めるしか手はないようだ。

 南側の岸壁には小さな掃海艇が2隻係留されている。阪神基地所属の第42掃海隊の掃海艇『くめじま』と『おきしま』の2隻だ。第42掃海隊には、あともう一隻『つきしま』いう掃海艇が所属しているのだが、訓練に出かけているのか姿は見えなかった。2隻の掃海艇をよく見ると船体は木造であることが分かる。金属に反応する磁気機雷対策のため、掃海艇は木造なのだ。

後部甲板には所狭しとフロートや機雷処分具などのいろいろな器具が置かれていた。

 艦艇を一通り見た後に基地内の食堂へ向かう。昼食時間帯で混雑していたため入らずに自販機前の椅子に座って雑談する。12:40頃、車のバッテリーが上がったために遅れて来た瑞鶴が到着。今回のオフ会参加者3名が揃った。

 『うらが』を艦尾から見る。日章旗の下にあるの

 が艦尾門扉で、掃海具などが出入りします。

 日章旗がはためいておりました。

 『うらが』を艦首方向から見る。バースの長さと

 艦が大きすぎて全体が入らなかった・・・。 

 艦首の「463」は艦番号です。

 右舷後方より全体像を撮影。手前にある駐車場

 に停めてある車と比べると、その大きさが分かる

 でしょうか?

海上自衛隊掃海部隊

●戦後の掃海活動 。・゚・(ノД`)・゚・。 アリガトウ・・・

 1945年(昭20年)8月の終戦によって帝国海軍

は解体され、残存艦艇のほとんどが解体や海没処

分に処せられたが、掃海艇と一部艦艇は対象から

外れた。海軍は無くなったが掃海部隊はそのまま

解散されずに温存されたのだ。

 太平洋戦争中期以降、アメリカが行った『対日飢

餓作戦』(という名称らしい)によって、大阪湾や瀬

戸内を始め日本の港湾一帯にばらまかれた機雷

や日本軍が本土決戦に備えて敷設した機雷の残

存数は推定約65000個。このため、民間船はもち

ろんのこと、連合軍艦艇の航行も危険となった。

 掃海部隊は太平洋戦争中から機雷除去などの

掃海作業を行ってきた。そのノウハウと経験がどう

しても必要だったのだ。(ばらまいた機雷があまり

にも多く、アメリカ海軍の掃海艇だけでは対処でき

なかったという話もあります。)

 戦後になって所属や名称が何度か変わったもの

の、機雷除去などの掃海業務は変わりなく続けら

れた。掃海部隊は帝国海軍の実戦業務を今日に

至るまで引き継いできた部隊となった。

 掃海部隊の活動のおかげで、1952年(昭27年

)に大阪湾・瀬戸内や日本周辺の機雷はほぼ撤

去された。

 一方で、戦後約7年に及ぶ掃海作業中に殉職さ

れた方の数は79名に上る。この方々の犠牲の上

に、今日の安全な航路と日本の繁栄があるのだ。

 『掃海』という大変危険な作業は困難な作業だっ

た。それでも『日本の平和のため』に、危険な仕事

にあえて挑んだ方々に感謝しましょう。

●今でも行われる掃海活動。ガンガレ!ヽ(゚∀゚)ノ

 1952年(昭27年)に日本政府から『安全宣言』

が出され、日本の港湾及びその周辺から機雷は

無くなった。ところが残念ながら全ての機雷を除去

できたわけではない。川から流入する土砂や埋め

立てなどによって埋まってしまった機雷(沈底機

雷)や放棄された爆弾や魚雷が、護岸工事や埋め

立て工事などで発見されることがたまにあるそう

だ。

 その度に部隊が出動して除去作業を行ってい

る。1999年(平11年)10月、神戸沖の神戸空港

埋め立て予定地において、アメリカ製沈底機雷な

らびに旧軍の250kg爆弾が発見され、その除去

(爆破)作業を行っている。

 終戦後約60年も経過した今日でも、航路の安全

確保のため、掃海部隊は欠かせない存在なのだ。

↑第42掃海隊所属の掃海艇『くめじま』(左)と

 『おきしま』(右)

●広がる活動。明日はどっちだ?

 海自掃海部隊のレベルは世界トップと言われてい

る。アメリカ海軍ですら一目置く存在だそうだ。なん

たって処理した機雷の数や経験が違うのだから当然

と言えば当然かもしれない。

 その実績を買われて、1991年(平3年)4〜10月

にかけて、海自掃海部隊がペルシャ湾に派遣され

た。ここでも海自はその実力をいかんなく発揮して機

雷除去作業を完遂している。

 この他にも、掃海母船がトルコ共和国への援助活

動(98年)、アフガニスタン被災民への救援活動

(01年)と2つの活動時に海上輸送任務に就いた。

なんか、海自の広報みたいになりました。右も左も関係なく、記事として読んでくらはいね。(=゚ω゚)ノ旦~

■『うらが』乗船〜甲板編(その1)〜

 12:50を過ぎたので『うらが』に向かって移動する。この頃になると空は徐々に明るくなってきた。晴れそうな予感がする。午後の部が始まる頃になると、あちこちから一般公開に参加する人達が集まってきていた。軍艦マニアとおぼしき人や家族連れ、自衛官の知り合いなどいろんな人達だ。午前の部には、旧海軍の帽子をかぶったお年寄りもおられた。

 退役軍人の方から一般の人達そして軍艦マニアまで、いろんな人達が思想に関係なく自由に乗艦し見学できるのが一般公開だ。しかし、イラクに自衛隊本体が派遣された直後の時期だけに、受付では所持品検査ということでカバンの中をチェックされた。それも承知できているのだから検査に協力すると、「ありがとうございました」と丁寧な返事が返ってきた。空港の警備員よりも愛想が良い。

 さて岸壁に向かうとタラップがかけられていた。入口用のタラップには制服を着た自衛官が一人立っている。我々が行くと敬礼して挨拶してくれた。タラップは人一人分の幅しかない。それによく揺れる。どやどや登って行き、艦右甲板前方から乗り込んだ。甲板には士官・水兵含めて4〜5名の自衛官が立っており、敬礼して出迎えてくれた。海軍式の脇を締めた敬礼だ。

 甲板に上がって岸壁を見ると高さはだいたいビルの3階ぐらいだろう。掃海艇を俯瞰して眺めることができた。艦首甲板へ向かう。舳先にはポールが立てられ日の丸があがっている。艦首甲板は広く岸壁固定のためのロープが整然とまとめられているが、それ以外には何もない。

 『うらが』級2番艦となる『ぶんご』の艦首甲板には62口径76mm単装速射砲が装備されているが、『うらが』には搭載されていない。『うらが』には自衛用の武装はないそうだ。ただし搭載を前提にした設計にはなっており、艦首甲板を取り外していつでも搭載できるようになっているという。

 船首甲板をウロウロしていると、satounoさんらがある物を見つけた。いわゆる「注意書き」だ。一般のフェリーでも見かけるが、自衛艦の注意書きは『・・・・せよ』という感じで、全てが命令口調で書いてあった。なるほど、そういうところはやはり自衛艦だと納得してしまった。

 タラップに向かう参加者の方々。とは言え、管

 理人を含めて3人だけです。(^^;)

 このタラップを上がって行く。これが意外と揺れ

 たのです。自衛官の方が出迎えてくれました。

 タラップを上ると自衛官達の敬礼を受けて乗船す

 ることになります。

 速射砲のない艦首甲板は広々としています。

 艦首の日の丸で記念撮影する人が多かった

 のでした。

 これは左舷通路にあったもの。全て命令口調

 で書いてあります。「7.水中爆発及び鮫に注

 意せよ」に注目。((((;゚Д゚))))

 艦首甲板から見た掃海艇。装備がよく分かりま

 す。対岸は六甲FTで、ダイヤモンドフェリーと阪

 九フェリーが接岸していました。

■『うらが』乗船〜甲板編(その2)〜

 艦首甲板から左舷へと移動する。掃海艇へ真水などを補給する際に使用されるめちゃ太いホースとフェンスが巻いてあった。そのまま左舷甲板を艦尾へ向かう。狭いと思っていたが、大人が2人横になって歩いて行けるほどの幅があった。

 デッキクレーンの下をくぐって艦尾の甲板に到着。艦尾は大型の掃海ヘリコプターMH53が着艦できるようになっているため、かなり広い平坦な甲板となっている。昨今の分譲一戸建て住宅なら、無理すれば4軒ぐらい立てることができるぐらいの広さだ。幅は約22mあるのだが、MH53はローターの直径だけで約24mもある。着艦するとローターの端は飛び出しているそうだ。

 そのMH53が着艦する時の吹き付けられる風(下降してくる風)は凄まじく、大人が簡単に吹き飛ばされるぐらいの風が吹くという。船尾部が一段低くなっているのは、甲板員の待避のためなのだろう。航行時の着艦となると、着艦する側もされる側も命がけだ。((((;゚Д゚))))

 後部甲板前には格納庫があるのだが、それはMH53を格納するためではなく掃海具などを準備するための場所だそうだ。今回の一般展示では、格納庫に写真パネルが設置され、掃海部隊の歴史、掃海作業の模様やアフガニスタンへの救援物資輸送時(『うらが』が任務に就いた)の写真が展示されていた。この時はパキスタンの港に接岸したそうだが、積み荷を降ろすと早々に離岸して帰国の途についたため、多くの乗員は上陸できず往復45日ほどの間船内生活を余儀なくされたそうだ。(ノД`)

 他には1950年代のアメリカSF映画に出てきそうな宇宙人みたいな防火服と実物大の機雷(模型)も展示されていた。3人で「あ〜だこ〜だ」と話しながら見て回る。便所があったので覗いてみたが、普通の便所でした。(^^)

 艦尾へ向かうと一人の士官が立っていた。後で知ったのだがN海曹長というお名前の方。ヒゲを生やしており貫禄のある方だ。いろいろと話を伺うことができた。(話の内容は本文中のあちこちに書いています。) 新聞やニュースなどでは報道されない現場の話をいろいろ聞けたのは収穫だった。

 左舷通路を通って艦尾甲板へと向かいます。

 意外と幅が広く歩きやすい通路でした。

 艦尾甲板です。艦尾は一段下がっていました。

 向こうに見えるのが阪神高速湾岸線です。

 艦尾から前方を撮影。ここにMH53が着艦しま

 す。風圧が凄いとのこと。

 格納庫はパネルが展示され、海自掃海部隊の

 歴史や活動などについて解説していました。

 本来ここは掃海具を整備する格納庫です。

 防火服。左のは特殊防火服だそうです。

 1950年代の米SF映画に出てきた宇宙人み

 たいでしょ。(゚∀゚)

 初公開?『うらが』の男子用(小用)便器。TOT○

 製で、コックをひねって水を出すタイプです。注目

 する物が違う・・・(^^;) 

■『うらが』乗船 〜艦内編(その1)〜

 右舷を通って艦中央のハッチから艦内部へ入る。入ると目に入るのがシェルターのような減圧室。しばらく生活できるように便所まで設けられている。掃海作業に潜水作業は付き物なので、減圧症対策(注1)のためどうしても必要になるのだろう。

 その先は医務室になっていた。たまたま自衛官がいたので話をすると、ここは手術室と診察室があるという。大抵の処置であればここで出来るそうだが、大きな手術はここでは無理だそうだ。その場合はヘリで陸上の大きな病院か、設備の整った船に搬送するのだという。また長期航海のときには医官が乗艦するが、それ以外のときは医官は不在のことが多いらしい。歯科医師が乗ることはないとか。ならば虫歯で歯が痛くなった時はどうするのかと尋ねると、長期航海の前に行われる健康診断で虫歯がひどい隊員(治療に時間がかかるという意味だろう)は、任務から外されるという。意外な話。・・・というより、こんなことを尋ねる人はあまりいないだろう。(^^;)

 順路を進むと階段があり、ここを上るよう指示されていた。これまた人一人分の幅しか無い上に、めちゃくちゃ急勾配の階段となっていた。角度的には45度ぐらいあるのではないかと思うような階段だ。手摺りがあるのでそれに掴まって上り下りしなければならない。戦闘時はこの階段を急いで上り下りしなければならないのだ。

 階段を3回昇るとブリッジに上がった。甲板から入ったフロアを1階とすると、だいたい1階から4階に上がったことになる。細長い部屋となっていて、羅針盤や気象レーダー、軍用レーダーなどいろんな機器が配置されている。素人には何がなんだかサッパリ分かりまへん。宇宙戦艦ヤマトみたいに、ブリッジの真ん中に艦長席があるのかと思ったが、そんなものはなかった。

 さて部屋の両端に黄色と赤色の椅子があった。右舷側に赤席、左舷側に黄席だ。何の席なのか聞いてみると、赤席が艦長用、黄色席は掃海群司令の椅子だという。「古代中国では黄色は位が高いことを示している」とはsatounoさん。なるほど、中国文化の影響を受けた日本だけに、こういう所にアジア的な面が出ている。旧海軍の軍艦の艦橋で指揮を執る何某司令とかいう写真があるが、あれも左舷側で指揮を執っているものかも知れない。

 椅子に座っても良いとのことなので座ってみる。座り心地は結構良い。マッサージ機能はさすがになかったが、長時間座ることも考慮した設計となっているのだろう。赤席(艦長席)にも座ってみるが、こちらも座り心地は良かった。艦長用だけあって、艦内モニターなどが周辺にあった。両席からの前方の眺めも良かった。双眼鏡(名前が書いてあって各自専用のようだ)を持って座ると艦長気分になれる。もう1つ黄色と赤色に半々に塗り分けられた椅子もあった。こちらは司令補(副司令?)の席だそうだ。

 外に出ると望遠鏡があった。一般公開のために設置された望遠鏡ではなく、普段から自衛官が使用する物だ。大変な優れもので、対岸の六甲アイランドに停泊する阪九フェリーとダイヤモンドフェリーの2隻のフェリーがよく見える。甲板の細かい所まで見えるので、かなり倍率の高い優れものなのだろう。こういう技術も旧海軍の遺産だったりするのは余り知られていない。

 ぐるりと一周してブリッジに戻る。ブリッジの後部にはもう一つ部屋があった。機関関係の制御室のようだ。窓がないので、この部屋にいると工場の制御室のような感じがして、船にいるような感じがしない。説明役の自衛官の話では、『うらが』はディーゼルエンジン(2基2軸)で動いているという。出力は19500PSで、22キロノットで巡航することができるそうだ。

 でかい減圧室。2人ぶんのベットと便所があり

 ました。シェルターとしても使用できそう。

 艦橋にて羅針盤をのぞき込むお二人。向こうに

 見える黄色の椅子が掃海群司令の席。

 こちらが艦長用の椅子。モニターや司令用マイク

 など、周囲にはいろんな機器があった。

 車のハンドルみたいなのが舵。その奥にあるの

 がレーダー(GPSだったかな?)です。

 機関室。工場の管理室みたいな感じの部屋だ

 った。伝声管はありません。

 艦橋の外壁に国際信号旗が塗られていました。

 どういう意味かはわかりましぇん。

>>注意1

 減圧症

 潜る深度が深くなるほど、潜水時間が長くなるほど、血液中に溶け込む窒素の量が多くなります。窒素は一度溶け込むと抜けにくいため、体内に障害をも

たらすことがあります。浮上時に障害が起こりやすく、周囲の圧力減少(水圧は深度が深いほど高くなります)が早すぎると窒素の排出が遅れて気泡となるこ

とがあり、この気泡が血流に障害を与えて皮膚の発赤・痒み、関節痛、ひどくなると麻痺が生じます。これが減圧症です。

 減圧症対策として、一般のダイビングなどでは深深度潜った後は、水深3mもしくは6mで一度止まって体内に溶け込んだ窒素を放出しています。これを

「減圧停止」と呼んでいます。

 減圧症にかかると治療は大変で、再圧治療を受けなくてはなりません。治療容器(再圧チャンパー)に入り、人工的に圧力をかけて気泡を縮小させ、徐々に

圧力を下げながら窒素を抜かなくてはならないのです。海自の場合だと、深度40mぐらいの海底から緊急浮上する場合もあり得るわけで、そうなった場合の

ことを想定して減圧室を掃海母船に設置する必要があるのでしょう。減圧室に便所があってしばらく生活できるようになっているのは、一気に再圧治療を行っ

てしまうためなんでしょうね。 

■『うらが』乗船 〜艦内編(その2)〜

 艦橋から狭い階段を下りる。階段を下るとかなり急なのが良く分かった。下りる場合は手摺りを下から掴むようにすると、手首を痛めなくて済むようだ。地下1階相当のフロアに下りると会議室のような部屋があった。その前にはNTTの船舶用公衆電話があった。「何で公衆電話が?」と疑問に思った。実は艦内は携帯電話の電波は届かないのだ。あとで食堂にいる間に瑞鶴が携帯電話を取り出してみたが、神戸の魚崎浜にいるというのに「圏外」となっていたのだ。船体ならびに甲板の鉄板がかない分厚いために携帯電話の電波は届かないのだという。わざわざ甲板に出て携帯電話をかけるわけにもいかないし、陸地から離れれば衛星電話でも持っていない限り電波は届かない。それゆえ船舶用の公衆電話が必要になるのだ。ところが3分600円(だったかな?)もするのが難点だそうだ。しかもこれ1台しかないので、是非とももう一台追加して欲しいそうだが、なかなか予算が下りないらしい。

 廊下を歩くと艦長以下全乗組員の顔写真が載っている組織図があった。不審者が潜り込んでも、顔なじみばかりなのですぐに正体がばれてしまうのだろう。先ほどのN海曹長を探すが、誰だか分からなかった。

 工作室が開放されていたので入ってみる。ここは某ヤマトの「こんなこともあろうかと作っておいた・・・・」という部署に相当する所だ。旋盤を始めいろんな工具や器具がずらりと並んでいた。不足した船の部品はもちろんのこと、船や掃海用具の修理までが担当となるわけだから、かなりの数の器具や材料が置かれているのだろう。下町にある職人工場という感じがする部屋だった。

 そのすぐ廊下側はシャッターが下りているが、おそらく甲板下の格納庫だと思われる。掃海母船だが、掃海の他に機雷敷設という任務もあるので、そこには本物の機雷があるのかも知れない。((((;゚Д゚))))

 順路を進んで行くと次に着いたのは食料庫前だった。食材によって収納庫が別れている。すぐ隣は厨房で、その向こうが食堂となっていた。目に付いたのは隅の机に置いてあった永●園のお茶漬けが入った箱。なんとも日本人的な食材である。また壁には『梅干しの種は・・・つまりの原因となるので バケツの中に捨てて下さい』という張り紙まであった。「梅干し」というのが、これまた日本人的である。ヽ(゚∀゚)ノ

 食堂にはテレビモニターが2台あった。他に新聞が何紙か置いてあるが、自衛隊の新聞だった。これを見てあれこれ話していると、さきほどのN海曹長がやって来た。減圧室の前でもお会いしたので、これで3回目だ。「まだいたの?んじゃ、観閲式のビデオでも見る?」と言って下さったので、好意に甘えて見せて頂くことにした。観閲式のビデオが見あたらなかったそうなので、30分ほどの自衛隊のビデオ(非売品?)を見せて頂いた。見終わるとN海曹長はおられなかったので、近くにいた自衛官にお礼を伝えておいてくれるよう頼んで食堂を後にした。

 廊下には自販機が置いてあったが、その近くに『アイス入荷しました』『アイス小3本100円』という張り紙があった。3人とも大ウケ。食堂周辺には庶民的な雰囲気が漂っていた。

 食堂から少し歩くと出口に着いた。これで艦内見学コースは終わる。出口にいた自衛官に「風呂はあります?」と尋ねてみた。

こんなこと聞くヤツはまずいないだろう。それでも自衛官はちゃんと対応してくれた。10人ぐらい入ることが出来る風呂があるとのこと。掃海艇や掃海艦から風呂に入りにやって来るのだそうだ。『うらが湯』という暖簾が下がっているのだろうかと想像してみる。居住区にあるので難しいかも知れないが、是非とも一度風呂に入らせて欲しいとお願いして、掃海母艦『うらが』から下船した。

 今回の艦艇一般公開は、あいにくの天気(午前:雨→昼:曇り→午後:晴れ)とあって出足が鈍ったためか、それとも急な公開決定であまり知られてなかったためか、見学者は行列が出来るほどではなかった。艦内もパラパラという感じで見学者(一般者)がいるだけだったので、自衛官の方達とゆっくりと話すことが出来たのは幸いだった。こういう機会でないと接することがない自衛官の方達の本音をチラリと聞くことが出来たし、現場の方達が大変な仕事ぶりをほんの少しだけ垣間見たような気がした。

ほんと、大変な仕事ですよ。

 艦橋の上下はこの急な階段を使います。かなり

 急な階段でした。

 『日立造船』建造を示すプレートがありました。

 右は歴代艦長の名前を書いたプレート。

 食堂の隣にあるのが厨房です。「海軍カレー」が

 食べたかった・・・

 

 食堂の隅にあった注意書き。『梅干し』というの

 が日本的。他にも●谷園のお茶漬けパックも

 箱に入って置かれてありました。

 艦内通路にあった張り紙。『アイス入荷しまし

 た』『アイス小 3本100円』だそうです。(゚∀゚)

 昔で言うところの『酒保』です。(瑞鶴談)

 

■オフ会終了

 『うらが』から下りると青空が広がっていた。岸壁に下りると揺れた感じがしなくなった。5600トンもの船でも海上に浮かんでいるので、少しではあるが揺れていたのだ。晴れたのでもう一度撮影して回る。掃海艇にも乗せてもらえるかと思って、乗組員に尋ねてみたが掃海艇の公開は行っていないという。小さい掃海艇は上下に大きく揺れている。乗り込んだら船酔いしそうだ。

 岸壁を離れて、遅い昼飯を食べようということで食堂に行った。しかし昼の営業は終わったとかで食べ損ねてしまった。(T T) 安くて旨そうなメニューが並んでいたので残念だ。16時前に阪神基地を出る。自衛隊員は最後まで親切に接してくれた。ほんと、どこぞの公務員よりも愛想が良い。

 この後、R2沿いのファミレスに移動して3人でかなり遅めの昼飯を食べる。あれこれ雑談した後、ここで解散となった。急なイベントオフ会でしたが、参加された方々、ご苦労様でした。m(_ _)m

 艦から下りる頃には青空が広がっていました。

 青空をバックに、もう一度艦首から撮影。

 テニスコートから『うらが』を撮影。中央にある長

 方形の区画が出口でした。

 参加者全員(3人だけですが・・・)で記念撮影。

 お疲れ様でした。(^^)>

【終わり】

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