■北方領土の話

 『北方領土』という言葉を知っている方は多いでしょう。小学校高学年の社会科教科書から載っていたように記憶しています。

『ロシア(旧:ソ連)によって不法に占拠された日本固有の領土』

というのが日本で教えられている一般常識です。

 『北方領土』とはなにか? 彷徨猫的にまとめてみました。

◆千島列島

 ロシアではクリル列島と呼んでいる列島です。北海道根室半島からカムチャッカ半島に至る全長約1200kmの火山列島です。(右図参照。主な島名のみ記載)

 最北端は日ソ両軍の間で激戦が行われた占守島(シュムシュ島)。最南端は標津の海岸からよく見える国後島(クナシリ島)で、全部で24の島があります。( 色丹島と歯舞諸島は含めないそうです。) 千島列島南端部の「国後島」「択捉島」、これらに「色丹島」と「歯舞諸島」を加えた4つが『北方領土』と呼ばれています。

◆北方4島

>>択捉島(エトロフ島)

 アイヌ語の「エト・オロ・プ」(岬のある所)というのが島名の由来。北方4島中最北に位置する島で、択捉海峡を挟んで北東にウルップ島と対しています。標高770〜1520mクラスの山がそびえる起伏に富んだ島です。最高峰は峰散布(チリヌップ)山(標高1587m)。北海道の知床峠からは、南端にあるベルタルベ山(標高1221m)が見えます。

 日本最大の島でもあり面積は約3184ku。鳥取県(約3507ku)よりも少し狭いぐらいの大きさです。東京都(約2102ku)、神奈川県(約2416ku)、富山県(約2132ku)、大阪府(約1894ku)、香川県(約1862ku)、佐賀県(約2439ku)、沖縄県(約2274ku)よりも広い面積がある島なのです。ちなみに本土4島と北方4島を除いた島で面積が500ku以上ある島は、沖縄本島(約1207ku)、佐渡(約854ku)、奄美大島(約712ku)、対馬(約654ku)、淡路島(約592ku)、熊本県の下島(約574ku)、屋久島(約504ku)となっています。桁外れに広い島であることがわかります。

 択捉島のカムイワッカ岬は北緯45度33分28秒、東経148度51分14秒に位置しており、日本国の主権が及ぶ領土として最北端に位置します。同島の単冠(ヒトカップ)湾は、大東亜戦争(太平洋戦争)の真珠湾攻撃に向かう連合艦隊の集結地として有名な湾です。

 行政上は択捉郡留別村・紗那(しゃな)郡紗那村、蘂取(しべとろ)郡蘂取村の3郡3村が設置され、紗那村紗那が同島の中心地となっていました。現在、紗那はロシア名でクリリスクという町になっています。

>>国後島(クナシリ島)

 日本第2の面積がある島で、約1499kuと沖縄本島よりも広い島です。国後水道を挟んで択捉島の南西に位置し、根室海峡を挟んで北海道の野付半島とはわずか16km離れているだけの『近くて遠い島』なのです。

 島北東に活火山の爺爺(チャチャ)岳(標高1822m)、ルルイ岳(1486m)の高山があり、南西に羅臼山(868m)、泊山があります。島中央部は湖沼の多いなだらかな土地で、天然資源の宝庫とのこと。また天然温泉も多いとか。

 行政上は根室支庁に属しており、国後郡泊村、国後郡留夜別村の2村が置かれています。中心地は島中央部の泊村古釜布。今はロシア名でユージノクリリスクという町だそうです。

 根室〜標茶〜羅臼の海岸線からは島影がよく見えます。知床峠からは全景を眺めることもできます。聞くところでは、夜間になると国後島を走る車のヘッドライドが見えることがあるそうです。それほど近い島なのです。

【写真】R244とR335分岐点近くから撮影した国後島。

(2005年9月撮影)

>>色丹島(シコタン島)

 国後島の南東に位置する約253kuの面積を持つ島です。根室半島の納沙布岬から北東に約75km、歯舞諸島の北東に位置します。標高413mの斜古丹山を中心にして島全体が山地・丘陵となっています。

 行政的には色丹郡色丹村が置かれています。中心地は斜古丹。ロシア名ではマロークリリスクという町になっているそうです。

>>歯舞諸島(ハボマイ諸島)

 北海道納沙布岬の沖に点在する諸島。水晶島、秋勇留(あきゆり)島、勇留(ゆり)島、志発(しぼつ)島、多楽島、春苅島、貝殻島の7島があります。総面積 約110ku。

 全て無人島ですが、漁期には島に寄宿するロシア漁民がいる他、ロシア沿岸警備隊が常住しています。

 行政的には花咲郡歯舞村に属していましたが、1959年に歯舞村が根室市と合併したため、現在は根室市に属しています。

【写真】納沙布岬から撮影した水晶島。水晶島までの間、ここから約3.7km先には貝殻島があります。

(1998年9月撮影)

◆北方領土の歴史

1)江戸時代

 日本は17世紀中頃には北方4島を含めた千島列島と樺太の存在を知っており、1644年(正保元年)に『正保御国絵図』が編纂される際に松前藩が提出し地図には、『えとろふ』『くなしり』などの島名が付けられていました。17世紀中頃には、松前藩は少なくても北方4島の存在を認識していたことになります。

 一方のロシアが進出してきたのは18世紀になってから。18世紀初め、カムチャッカ半島を支配してから千島列島北部に現れるようになりました。1711年にコサックの反乱者コズィレフスキーら2人が占守島(シュムシュ)島に上陸し征服したのが千島列島征服の始まりです。翌年、幌筵(パラムシル)島も征服。1713年には温祢古丹(オンネコタン)島等を襲撃・調査したのち帰国しています。なお、ヨーロッパ人ではロシアよりも先に東インド会社のオランダ人が1643年に択捉島とウルップ島を発見したと報告されています。これまでに日本人がこれらの島を確認していたかどうかは不明です。

 江戸幕府が千島列島に調査隊を派遣したのは1785年(天明5年)のこととされています。老中田沼意次の命により派遣された調査隊には最上徳内らが参加。ウルップ島まで上陸して、ウルップ島以北の千島列島の情勢とロシアの南下状況を調査して帰国。その状況は『蝦夷草子』にまとめられて幕府に提出されています。

 1792年(寛政4年)、ラクスマンが女王エカテリーナ2世の命を受けて来航。ロシアの南下に警戒心を持った江戸幕府は、国防上の理由から、1798年(寛政10年)に180名ほどの大規模巡察隊を組織して蝦夷地に派遣。この巡察隊のうち、支配勘定近藤重蔵の藩は、最上徳内らと国後島と択捉島を調査。択捉島に『大日本恵登呂府』と書かれた国土標柱を建立して江戸に帰任しています。そして翌1799年(寛政11年)、江戸幕府は北方領土と樺太を含む蝦夷地を幕府直轄地とし、国後島と択捉島に郷村制を実施し漁場を開いています。現在の兵庫県淡路島出身の高田屋嘉兵衛が「辰悦丸」で国後島と択捉島に航路を開設し、択捉島に漁場を開いたのはこの頃のことだそうです。

 一方で江戸幕府は、18世紀中頃、松前藩が国後島に国後場所(番所?)を設置したのをかわきりに、択捉島より南の島々に場所を置いて外国人の進入を防ぎ、実質的に江戸幕府が統治していました。1801年(享和元年)からは南部藩と津軽藩から各々100名ほどの武士を派遣させて守備に当たらせています。

 なお、この時点では北方領土を含めた千島列島には先住民族(アイヌ民族など)がいたわけで、日本にしろロシアにしろ、彼らを追い出し(もしくは征服して)勢力下においたことになります。そういう観点からみると、北方領土にしろ千島列島にしろ元々固有の領土(古来から日本民族もしくはロシア人しか住んでいなかった土地)ではないとも言えるわけです。

2)日露修好通商条約の締結

 歴史の勉強をしていると、江戸時代末期の鎖国政策の終焉を意味する出来事として教科書に載っている条約です。ただこの条約が結ばれるまではかなりの紆余曲折がありました。

 19世紀初頭、ロシアの南下政策が顕著になり始めます。1804年(文化元年)、ロシア皇帝アレキサンドル1世の使節レザノフが通商を求めて長崎に来日します。しかし江戸幕府は 鎖国政策を理由にこの申し出を拒否。これに怒ったレザノフは樺太ならびに択捉島などで日本人や日本船を襲撃します。これに対向して江戸幕府も日本に接近するロシア船への打ち払いを命じます。

 1811年(文化8年)、樺太西海岸を測量したロシア軍艦ディアナ号のゴローニン船長が、千島列島を測量して国後島に上陸したところを南部藩に捕らえられて松前藩に護送・拘束されます。ディアナ号の副艦長リコルドは艦長を開放するよう松前藩と交渉を重ねますが、交渉は難航しました。リコルドは報復として、翌年1812年に国後島付近を航行中の日本戦を襲って高田屋喜兵衛を捕らえます。一時はロシアとの紛争も危惧されましたが、1813年に帰国した嘉兵衛が松前藩の奉行を説得。嘉兵衛の尽力によりゴローニンは高田屋嘉兵衛と交換という形で釈放されました。

 これを機として1813年(文化10年)から日露間で国境確定交渉が始まりました。が、交渉は難航します。 この間、ロシアはヨーロッパでの勢力拡大を目指したために極東方面は比較的静穏な時期を迎えます。しかし、やがてロシアでは農奴解放運動が盛んとなり国内情勢が不安定となります。またクリミア戦争(1853〜1856年)でヨーロッパ方面での南下が難しくなったことから、極東での南下政策を強化します。

 1853年(嘉永6年)7月、アメリカのペリー提督が来日。江戸幕府の鎖国体制は大きく揺るぎます。ペリーに続いて、ロシアもプチャーチン提督を長崎に派遣。江戸幕府に対して通商を求めると

ともに樺太と千島列島での国境線画定を求めました。この交渉も難航。プチャーチン提督は185

3年11月まで長崎に滞在しますが交渉はまとまらず提督は帰国。翌年再び来日しますが、この時も交渉はまとまらず、国境線の画定は難航します。

 1855年(安政元年)2月7日、伊豆の下田において、日本とロシアの間に『日露修好通商条約』がようやく締結されます。この条約で日露間の国境は、当時自然と成立していたウルップ島と択

捉島との間であることが確認されました。ウルップ島より北はロシア領で、択捉島より南の地域は日本領であることが、 困難な交渉の後、平和的に友好的な形で合意に達したのです。

 しかし樺太については、日本もロシアも自国領であることを主張してお互い譲らなかったため、この条約においては樺太には国境線を画定せずに、日露両国民の混住地としています。

3)樺太千島交換条約

 明治新政府が発足してすぐの1869年(明治2年)、北方4島には「開拓使」が置かれ郡制が実施されるようになりました。国後島・択捉島は「千島国」とされ5郡が設置されます。

 一方、樺太では植民地を求めて南下してくるロシアと、漁場を求めて北上する日本との間に紛争が絶えず、次第に圧迫されるようになります。

 このような状況のもと、明治政府は1874年(明治7年)に榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣。翌1875年(明治8年)5月7日、ロシア全権ゴルチャコフ首相との間に『樺太千島交換条約』を締結します。

 この条約では、日本は樺太全島をロシア領と認める代わりに、ロシアはウルップ島より以北の18の島々を日本に譲渡するものとしました。『日露修好通商条約』によってロシア領とされたウルップ島から占守島までの千島列島を日本領とするものです。

 これはあくまでも交渉によって平和的になされたことであり、国後島と択捉島を含む北方領土は含まれていません。この条約締結時は北方領土は日本国の領土として認識されていました。

4)日露戦争

 クリミア戦争に敗れたロシアは極東とくに中国東北部への南下政策を強化します。1858年、アイグン条約で当時の中国(清王朝)に圧力をかけて黒竜江東岸を奪い取ります。さらに1860年には、英仏と清王朝の紛争解決の交渉斡旋を口実に(中露)北京条約を結ばせて沿海州一帯もロシア領として獲得します。この後、ロシアは露骨に満州と朝鮮半島への進出を始めます。

北方領土の交渉がなされている間に、ロシアは東アジアにおいて着実に南下しつつあったのです。

 1894年(明治27年)8月に日清戦争が勃発。この戦争は翌95年(明治28年)3月に日本の勝利で終わります。このとき、日本は台湾・澎湖列島ならびに旅順を含む遼東半島を清王朝から割譲されました。ところがロシアはフランスとドイツと共に『遼東半島の清王朝への返還』を要求してきました。(三国干渉) 戦争直後で疲弊した日本にヨーロッパの列強3国に対向する力はなく、日本は遼東半島を清王朝に返還します。

 ところがロシアは、満州における鉄道施設権と日本が返還した遼東半島の大連・旅順の租借権を獲得します。さらには朝鮮半島への進出も開始し、朝鮮半島に利権を持っていた日本との対立は深まります。

 同じくアジアにおける利権を持っていたイギリスもロシアの南下を脅威と感じ、1902年(明治35年)に日本と同盟(日英同盟)を結びます。日本はロシアとの交渉を続けますが、ロシアの態度は変わらず交渉は決裂。1904年(明治37年)2月6日に日露戦争が勃発。満州と朝鮮半島ならび

に周辺海域で行われた激戦の末、日本が事実上勝利。1905年(明治38年)9月5日にアメリカ

の仲介によりポーツマス条約が締結されます。この条約により、日本は北緯50度以南の南樺太を領土として得ることになります。

 日露戦争後のロシア帝国ですが、1917年のロシア革命後の混乱を経て崩壊。1922年ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立し 、帝政ロシア帝国の広大な領土を引き継ぎました。

5)大東亜戦争(太平洋戦争)

>>戦争勃発

 日露戦争に勝利した日本は帝国主義の道を歩み始めます。日露戦争を自国の力で勝ったと過信したのですな。実際はイギリスやアメリカなどが助けてくれたのと、ロシアの政情不安があったからこそ勝てた戦争だったのですが・・・。

 それはさておき、日露戦争集結から昭和初期に至るまで、千島列島や南樺太では順調に開発が進み、1945年の終戦時には北方領土だけで約17000名の日本人が暮らしていました。

 1929年(昭4年)大恐慌が起こります。これを機に日本は対外進出を強化し始めます。これはやがて米英との対立に発展します。日中戦争、日独伊三国同盟、さらにはフランス領インドシナ(現:ベトナム)への日本軍進駐により米英との関係は修復不可能な状態となり、1941年(昭16年)12月8日、帝国海軍の真珠湾奇襲攻撃により大東亜戦争(太平洋戦争)に突入します。

この真珠湾攻撃の帝国海軍機動部隊の集結地として選ばれたのが、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾でした。

 ソ連との間には、1941年4月13日に『日ソ中立侵条約』を締結。これにより満州の戦力を他の戦線に転用することが出来るようになりました。

 さて戦争はご存じの通り開戦後わずか半年ほどで日本が劣勢となり、1945年(昭20年)に入ると日本周辺にまでアメリカ軍が侵攻してくるようになりました。 千島列島でも占守島はアメリカ領のアリューシャン列島への攻撃基地として戦略上重要拠点となっており、アメリカ軍の攻撃を受けています。ちなみにアメリカは千島列島沿いによる日本侵攻計画を検討したことがあったそうですが、気象条件が悪いことなどから計画倒れに終わったそうです。

>>終戦

 1945年(昭20年)2月、秘密裏にヤルタ協定が結ばれます。この協定は、対独占終了後2〜3ヶ月後のソ連の対日戦参加を約束するものでした。この協定では、日露戦争によって失ったロシアの領土が回復されることが条件の一つとして加えられており、北方領土関連では 『樺太南部及びこれに隣接するすべての諸島のソ連への返還、千島列島のソ連への引き渡し』が約束されていました。締結国はアメリカ合衆国、グレードブリテン(イギリス)、そしてソビエト連邦の3カ国でした。続く45年7月にはポツダム宣言が発せられ、日本の領土は本土4島と連合国の決定する島々となることが明記されます。

 ヤルタ協定の密約に従い、ソ連は1945年4月に日ソ中立条約の破棄を通告してきます。45年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を無視して対日参戦。満州へとなだれ込みます。南方戦線などに主兵力を転出していた日本軍はたちまちの うちに総崩れ。そして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に対して無条件降伏。ここに大東亜戦争(太平洋戦争)は終結しました。

6)北方領土へのソ連軍侵攻

 1945年(昭20年)8月15日正午に玉音放送。翌16日午後4時に大本営は停戦命令を出し、全ての日本帝国陸海軍部隊の戦闘行為は停止されました。これにより戦闘状態(戦争)は終わ りました。

 とこが8月18日、ソ連軍第二極東軍はカムチャッカ半島から千島列島への侵攻を開始します。最北端の占守島では上陸してきたソ連軍と激戦を展開。日本軍将兵よりも多くのソ連軍将兵が犠牲となりました。千島列島への侵攻は、8月31日まで行われ、ウルップ島までの占領が完了します。

 一方、第一極東軍は樺太南部への侵攻を開始。極東第一軍は北海道北部(留萌釧路ラインより北部分)と北方4島の占領を

目指していました。ソ連のスターリンは北海道の北半分までを手中に治めようとしていたのです。ところが北海道侵攻は、日本本土単独占領を目指すアメリカの強い反対で断念。矛先を北方4島に変えて、アメリカ軍の不在を確認したうえで北方4島への上陸を開始。8月28日〜9月5日までに占領を終えました。北方4島の日本軍守備隊は一切抵抗せず無血占領でしたが、捕虜となった日本兵はシベリア送りとなり多くの将兵が亡くなっています。ソ連による占領後、残留日本人は1947年(昭22年)〜49年(昭24年)にかけて全員が日本本土へ送還されています。

7)サンフランシスコ平和条約

 終戦後、日本は連合国(GHQ)の占領下に置かれます。占領が終わって独立を果たすのは1951年(昭26年)9月8日のサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)調印後のことでした。この条約の発効(1952年4月28日)までは戦闘行為は停止(休戦)状態でも、条約上は戦争状態が続いていたことになります。

 この条約において、北方領土関連の取り扱いは、第2条(領土権の放棄)のc項において、『日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接するすべての諸島に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する』と書かれています。 

 これが北方領土問題をややこしくしている元凶です。北方4島については何も書かれていないのです。日露戦争により獲得した地域を放棄するのであれば北方4島は日本領土となるわけです。(日本側の主張の根元) しかし千島列島という観点から見れば国後島と択捉島は千島列島に属するので放棄されたと見なされます。(ソ連側の主張の根元)

 ただ少なくても、北方4島は日露戦争により獲得した土地ではなく、『日露修好通商条約』によって平和的に獲得した日本の領土であることは歴史的に明らかです。このことは、サンフランシスコ平和会議で講演を行った吉田茂全権もはっきりと明言して います。ただしサンフランシスコ平和

会議で、日本はウルップ島以北の千島列島だけを放棄するとは明言してはいないそうです。

 地図はサンフランシスコ平和条約による北方領土の地図です。『日露修好通商条約』による国境線とほぼ同じ状態ですね。南樺太と千島北部がオレンジ色にしてありますが、同地域はソ連(→ロシア)が実効支配しているに過ぎず、 サンフランシスコ平和条約に参加していないことから、同地域(オレンジ色の部分)の帰属は未定であるというのが日本政府の立場だそうです。日本の世界地図で同地域がソ連(ロシア)領でないように示されている地図がありますが、それらはこ の日本政府の立場を根拠にしているようですね。あまり意味のないことですが、ここではそれに従ってみました。

 なお、ソ連はサンフランシスコ講和条約には調印しておらず、ソ連崩壊後に後を継いだロシア連邦の間にも2006年になっても平和条約は結ばれていません。

8)戦後の返還交渉

 サンフランシスコ平和会議の後、日本とソ連は個別に平和条約締結のための交渉を開始します。この会議では国交回復交渉を最優先とすることになり、1956年(昭31年)10月に日ソ共同宣言が発表されます。この宣言でソ連側は、歯舞諸島と色丹島を日本に引き渡すことには同意していますが、国後島と択捉島の返還には一切言及していません。さらに歯舞諸島と色丹島の返還も、日ソ間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものと規定されています。

 歯舞諸島と色丹島は北海道の付属諸島と見なされるが、国後島と択捉島は千島列島を構成する島であると認識しているようです。千島列島はヤルタ協定やポツダム宣言によってソ連の支配下(領地)として認められているのだから、返還する必要は一切ないということのようです。

 1960年(昭35年)1月、日本は新しい日米安保条約に署名します。これにソ連が反発。『歯舞諸島と色丹島の返還には、日本領土からの全外国の軍隊の撤退および(日ソ)平和条約の締結という条件のみ応じる』と通達してきました。事実上の返還拒否です。さらに1961年にはフルシチョフ首相は、「領土問題は一連の国際協定により久しき前に解決済み」と述べるなど、2島返還論すらなくなり、ソ連に対して日ソ間に領土問題があることを認めさせる段階まで一気に後退しました。

 これを解決したのが1973年(昭48年)に訪ソした田中角栄首相。4回にわたる田中・ブレジネフ会談によって、日ソ間に北方領土問題があることをソ連に改めて認めさせ、領土問題解決交渉を継続させるという最高首脳レベルでの合意を取り付けまし

た。しかし、その後の領土問題解決交渉は具体的な進展は見られないまま時は過ぎて行きます。 この間、日ソ間には諸々の問題が持ち上がり関係は冷え込みますが、1988年(昭63年)7月の中曽根首相の訪ソの時に、ゴルバチョフ書記長が領土問題の存在を認める発言をしたことで交渉がようやく進み出します。このあと、外務次官クラスでの平和条約作業グループが常設されて協議が進められます。1991年(平3年)4月のゴルバチョフ書記長の訪日時に発表された日ソ共同声明で、北方領土が平和条約において解決されるべき領土問題であることを文書の形で明確に確認されました。

 1991年12月、ソ連は崩壊。続いて登場したロシア連邦がソ連の後継国家となり、以後の交渉相手はロシア連邦となります。

1993年(平5年)10月、ロシアのエリツィン大統領が来日し首脳会談を開催。ここで署名された東京宣言において、領土問題の存在と対象となる北方4島の島名を確認し、それらの島々の帰属問題があることを明確にしました。

 この後、1997年(平9年)のクラスノヤルスク合意、98年(平10年)4月の川奈合意など、数々の交渉と合意などで領土問題があることと解決する必要があることを確認しあっています。数々の合意によって、民間レベルでの交流も活発になってきており、4島に対する相互訪問や人道支援、北方墓参などが実現されて現在に至っています。

 2005年になってもロシアは歯舞諸島と色丹島の2島返還を主張しています。1956年の日ソ共同宣言の立場を取っています。これに対して日本は4島一括返還を求めていくというのも50年来変わらぬ態度。この先、どうなるかは我々には分かりません。私が元気な うちにカムイワッカ岬にパスポート無しで立てるようにして欲しいものです。

【参考資料】『われらの北方領土』(外務省国内広報課制作)/他。いろいろな資料やサイト

◆北方館

 ここで書いた内容を、豊富な資料とパネル・写真などで分かりやすく解説してくれている資料館です。北方領土で捕獲された動物の剥製も数多く展示されています。展望台からは北方領土を一望することができます。

 なぜか、ここを訪れた大物政治家の写真もパネル展示されています。あの北海道選出の某政治家の若かりし頃の写真もありました。近くには「北方領土返還祈念シンボル」である『四島の架け橋』というモニュメントも建っています。

 北方館の隣には『望郷の家』という施設も併設されており、北方領土関連の生活関連資料など

が展示されています。

 場所は納沙布岬の望郷の岬公園内。土産物屋の先にあります。

【北方館】

北海道根室市納沙布36番地 望郷の岬公園内

電話:01532−8−3277

開館時間:午前9時〜午後5時(11/16〜翌年3/15は午後4時半で閉館)

休館日:毎週月曜日と年末年始。(月曜日が祝日・振替休日の場合は除く)

入館料:無料

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