●帝国陸軍八日市飛行場 掩体壕【滋賀県東近江市】

 滋賀県東近江市(旧:八日市市) には、かつて陸軍八日市飛行場がありました。現存する掩体壕は、この八日市飛行場の一施設として建設されたものです。建設されたのは

連合国軍の本土攻撃が予想されるようになった1944年(昭19年)頃から。

 八日市飛行場周辺で何基の掩体壕が建設されたのかははっきりとしませんが、2000〜01年の調査によると飛行場跡周辺にはコンクリート製の有蓋掩体壕が2基、無蓋掩体壕が10基、合計12基の現存が確認されているそうです。

>>05.12.31 Update

◆八日市飛行場

 

●飛行場の誕生

 八日市飛行場の前身は、1915年(大正4年)に開設された冲野ヶ原飛行場という民間飛行場。 1914年(大3年)9月に、滋賀県愛知郡八木荘村(現:愛知郡秦荘町→愛荘町(予定))出身の萩田常三郎という人物が、故郷の冲野ヶ原で飛行機の短距離飛行を行うために整地された4千坪ほどの臨時飛行場が始まりでした。わずか12分45秒ほどの飛行でだったが、それを見た当時の八日市町長を初めとする地域の有力者の方々が飛行学校の設立を決め、5万坪もの敷地を用意。はやくも同年11月には予算を計上し建設にとりかかりました。1915年(大4年)6月、萩田氏(同年1月に墜落事故により逝去)の飛行からわずか7ヶ月ほどでした。日本初の民間飛行場だったそうです。

●軍用飛行場への転換

 ところが国内外の個人所有の飛行機がたまに訪れるぐらいで飛行場の利用が予想以上に芳しくなく、用地買収費用の回収や建設費の支払いはもとより維持費すら出ない有様。八日市町議会では予算を巡って大紛糾。飛行学校設立の話もいつの間にやら立ち消えとなってしまいました。

 転機となったのが、1917年(大6年)11月に実施された陸軍大演習。この大演習では冲野ヶ原飛行場も利用されました。これより以前から飛行場に軍隊(帝国陸軍)の飛行部隊を誘致しようという話があったそうですが、この大演習を機に誘致は本格化。軍の飛行場として運用するには広大な土地が必要となることから、八日市町を始め周辺町村さらには

滋賀県からも予算を計上してもらい誘致活動を本格化させます。当時の滋賀県知事の尽力により、1920年(大9年)12月、冲野ヶ原飛行場に陸軍航空隊「航空第3大隊」の配置が決定しました。冲野ヶ原飛行場は軍によって接収されたのではなく、地域の誘致活動により軍用飛行場になった民間飛行場 だったのです。(誘致の狙いは軍隊駐留による軍需であったことは明らかですが・・・)

 1922年(大11年)1月に「航空第3大隊」が開隊され、名称も八日市飛行場に改称されました。大隊は徐々に規模が拡大・発展してゆき、1938年(昭13年)には「飛行第3戦隊」となり、主に爆撃機(97式?)を主体する 実戦部隊の基地となります。 周辺地域や地元業者などはの恩恵(軍需など)を受けますが、騒音問題や基地拡張に伴う立ち退き問題など、現代にも飛行場周辺で起こるいろいろな問題が発生したといいます。それでも毎年4月3日には「飛行場祭り」(今で言う基地祭)が開催され、軍民共々楽しめる年中行事として慣例化していたそうです。これまでの経緯からそのような行事を開催したのでしょうか?まだ比較的平和な時代のことでした。

●飛行場の終焉

 1941年(昭16年)12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。開戦後は部隊の入れ替わりが 激しくなり、飛行第3戦隊は樺太に転出(のちフィリピンに進出し全滅)し、実戦部隊に変わって教育隊などが配備されます。また中京・近畿地区防空の任務を担った部隊の前線基地としても活動。日本の各陸軍飛行場から南方戦線へ移動する部隊のの中継基地としても使用されました。

 終戦時には関東の調布飛行場から進出していた陸軍飛行第244戦隊の5式戦闘機を初めとする約220機もの航空機が配置されていた(進出していた)そうです。同戦隊による終戦間際(1945年(昭20年)7月25日)の米海軍F6F

戦闘機10機撃墜(日本側も2機喪失)という快挙を成し遂げたのは八日市飛行場進出の時でした。

 1945年8月15日の終戦後、飛行場は進駐軍に接収されます。飛行場にあった220機にもおよぶ航空機のほとんどは焼却処分され、飛行場自体も廃止され、跡地は農地として払い下げられ姿を消しました。飛行場として機能した期間はわずか30年ほどでした。

 現在、飛行場の名残としては掩体壕の他、冲ノ原神社と同神社に移設保管された連隊本部門柱ぐらいだそうです。

【写真上】1925年(大14年)に創祀された冲原神社。八日市飛行場に配備された第3大隊長の意向で、

『隊員達の安全と連隊の守護神』ならびに『当地の人々の心の安らぎの場所』として創祀されました。

【写真下】神社内にある連隊本部営門の門柱。基地の面影としてはこれくらいでしょうか?

八日市飛行場掩体壕

掩体壕(その1) 2005年11月取材

掩体壕(その2) 2005年11月取材

●掩体壕(その1)

>>DATA

 所在地:滋賀県東近江市柴原南町

 訪問日:2005年11月23日

◆掩体壕1号

 滋賀県東近江市柴原南町の布引丘陵にはコンクリート製の有蓋掩体壕が2基現存しています。2基とも名神高速道路の近くの竹林の中に残っています。2基とも遊歩道(自転車道)沿いあるのですぐ近くまで近寄ることができます。

 柴原運動公園前から滋賀県道石原八日市線(r45)を進み名神高速を越えて京セラの工場前付近で左折。名神高速の南側を通る2車線の市道を2kmほど進むと遊歩道(自転車道?)との交差点に到着します。ここから遊歩道を歩いて進むとすぐ右側の竹林の中に掩体壕が現れます。(以下、掩体壕1号と表記します。)

◆正面

 掩体壕は正面から見るとカマボコ型をしたコンクリート製のドーム建築物です。掩体壕1号はほぼ原型をとどめています。半壊している大阪府八尾市の掩体壕も、かつてはこのような形をしていたのでしょう。正面 開口部の幅は約30m。高さは8mぐらいでしょう。ここに5式戦闘機が格納されていたのかもしれません。

 北海道別海町計根別にある掩体壕も陸軍タイプですが、そちらとは明らかに正面の形態が違っています。八日市の掩体壕1号の正面は天井部分が”ひさし”のように少し(40cmほど)飛び出し

ています。家で言う”梁”のような部分があるのがわかります。

 掩体壕の端を見ると、その付近にはコンクリートの基礎が残っています。ここまで何かがあったことを示しています。掩体壕の飛び出した天井部分の端に鉄筋がむき出しになっていることから、掩体壕1号はもう少し長かったの でしょう。戦後、何らかの理由で短くしたのでしょうか。

掩体壕の左端から右端方向を撮影。2mほど前

にコンクリの基礎があります。道は後から造られ

たもの。

掩体壕の右端にあるコンクリの基礎部分。手前の

畑を作る際に破壊したようです。

写っている方々はオフ会参加の方々です。

こちらは左端の基礎部分。掩体壕の端から延び

ているので、かつては掩体壕の一部だったので

しょう。

天井の端。鉄筋がむき出しになっています。断面

も荒れていることから、ここで切断されたものと思

われます。それにしても石が多い。

八尾の掩体壕と比べると、鉄筋が目立ちます。

八日市には資材が優先的に回されたのかも知れ

ません。

”ひさし”というか”梁”の部分。こちらも断面から察

するに一部撤去されているようです。もう少し下方

向に延びていたのでしょう。

◆内部

 むき出しになっているコンクリの断面を見ると、石の多いかなり粗悪なコンクリートであることが分かります。15cmほどもある大きな石が混ざっていたりします。資材不足でコンクリートと鉄筋が不足したことから、石を多く混ぜて強度と量を補おうとしたのでしょう。これは戦争後期に建設された軍の建築物に共通のことです。

 掩体壕1号の内部は平坦ではなく土が盛られていました。もとは平坦なはずなので、後にどこからか持ってきたのでしょう。内部の奥行きは約20m。奥に進むにつれて 幅は狭まりながら天井は低くなって行きます。いわゆる”尻すぼみ状態”になっています。

 粗悪なコンクリートを使用していることから、天井は至る所にひび割れがあり、いつ崩落してもおかしくない状態です。その天井の厚さは20cmぐらい。これでは20mm機関砲にすら耐えることができません。掩体壕の上には土を盛って覆い隠していたそうですが、質の悪いコンクリもさることながらコンクリ自体の厚さと鉄筋の少なさから、素人目に見ても脆弱な構造となっています。もし爆弾が直撃しようものなら一発で破壊されたことでしょう。至近弾でも致命傷です。築後60年近くもの間、崩壊しなかったことの方が奇跡です。

 なお掩体壕1号の天井にはスズメバチの巣までぶら下がっていました。ハチの活動期間に訪れるときは要注意です。

天井には大きな亀裂が出来ています。ここからコ

ンクリの厚さが見えますが、大変薄いことが分か

ります。

表面は剥脱が起こり、亀裂が走っています。

むしろ今まで崩壊しなかったことの方が奇跡と言

えるかも知れません。

基礎部分のコンクリート。石が多いのが特徴です

が、中にはこんなに大きな石まで混ざっていまし

た。これでは強度不足です。

◆後方部分

 掩体壕1号の右側は緩やかな斜面の竹林だったので、竹林の中を後方に向かって歩いてみます。丘の斜面を少し登ると右後方より掩体壕を見ることができました。

 こんもりとしたドーム状の掩体壕をぐるりと半周して後方に移動します。後部は閉じられてはおらず、幅約10mの半円形で開いています。こちらは切断された跡はなく、建設当時のままの状態になっています。同じ陸軍タイプである八尾の掩体壕も、完全であれば同じような形をしていたのでしょう。コンクリートは相変わらず小石の多い劣悪なモノを使用しています。

 掩体壕左側は倒木などがあり危険でしたので立ち入っていません。

 なお掩体壕表面はかなり危険な状態なので、掩体壕表面に上ることは絶対にやめて下さい。

掩体壕を右後方から眺める。以外と広い天井部

分です。崩壊の危険があるので載ってはいけま

せん。

こちらが掩体壕後方部分。このまま絞られて閉じ

てゆくのではなく、半円形で開放状態になってい

ます。

後方部分を上方から見下ろします。幅は10mぐら

いでしょう。高さは2m50cmぐらいというところで

しょうか。

近付いて掩体壕左側から後方を撮影。断面は比

較的綺麗なので切断されていないようです。

この部分は造られた当時のままでしょう。

掩体壕左側の状態。後方→前方方向を撮影。

倒木などがあり、左側は危険だったので足を踏み

入れてません。

掩体壕右側。前方→後方方向を撮影。表面には

徐々に植物が浸食を始めています。コンクリート

表面はかなり粗悪です。

◆掩体壕のこれから

 掩体壕表面には落ち葉が積もっています。落ち葉が積もり土となり、そこから新たな植物が育っており、徐々にではありますが自然に戻り始めています。周囲の竹も少しづつですか浸食しつつあります。竹は地下茎を延ばして生えてくるので、後方から壕内に進入する恐れがあります。このまま放置すればいずれは植物の力で壕自体が崩壊するでしょう。

 このまま放置するのか撤去するのか、保存するのかは分かりません。保存する方向に進んでいるらしいということなのです。しかし、八日市市は2005年2月に周辺の6町と合併して東近江市となったので、方針が変わるかも知れず不確定要素として残っています。

 関西圏では比較的状態の良い掩体壕なので、是非とも保存してもらいたいものです。

掩体壕(その2)

>>DATA

 所在地:滋賀県東近江市柴原南町

 訪問日:2005年11月23日

◆掩体壕2号

  掩体壕1号から名神高速を挟んだ反対側(北西)にもう1基の有蓋掩体壕が現存しています。遊歩道(自転車道)を戻って市道を越え、名神高速をくぐって北側に出ます。右側に農業用の池を見ながら進むと遊歩道は左にカーブします。この付近に2基目の掩体壕(以下、掩体壕 2号と表記します。)がありました。掩体壕1号と同じ案内看板があるのでそれが目印となります。

  ところが掩体壕2号のある付近ですが、完全に竹林となってしまっており一見何がなんだか分かりません。しばらく見ていると竹林の奥にコンクリート製の建造物があることが分かります。それが掩体壕2号です。周囲は密集した竹林の上、個人所有の土地で柵が設けられているので近付くことができません。遊歩道から見ることになります。

 右写真は遊歩道から望遠モードで撮影した掩体壕2号。左側の端です。奥に空間があり、その先に盛り土があるのが分かります。壁のようなものがあるのが見えますが、それが盛り土です。掩体壕1号のように大雑把に盛ったのではなく整理(整地?)されています。 

 竹に隠れてよく分かりませんが、壕自体の大きさは掩体壕1号とほぼ同じぐらいでしょう。こちらはあまり破壊されていないようです。

 掩体壕2号には、掩体壕1号で撤去されていた正面両端の部分が残っています。右側の部分が比較的状態が分かります。扇形の構造物が確認でき、それはそのまま後方に延びて掩体壕本体となっており、掩体壕正面の半円形の天井とつながっています。本体から両足(両手?)のように扇形の構造物が左右に延びているのです。

 確認出来るコンクリート断面は切断された跡などはありません。見える範囲内では破壊されている箇所はないようなので、掩体壕2号はほぼ原型に近い状態で残っているのでしょう。

 ただ1号と同じく、掩体壕表面には落ち葉や倒木などが折り重なっており、徐々に浸食を受けています。このまま竹林中に埋もれて崩壊するのでしょうか。こちらも是非とも残してもらいたい掩体壕です。

上の写真を拡大。掩体壕後方の斜面が確認でき

ます。手前の壁のようなものは盛り土でしょう。

内部は1号ほど荒れてはいません。

掩体壕正面右端を撮影。竹に阻まれてよく分かり

ませんが、竹の間からコンクリートが見えるのが

お分かりでしょうか?

別のアングルから撮影。扇形の構造物の向こうに

掩体壕正面の天井が見えます。左右の端が前方に出ているのでしょうか。

 

望遠レンズの限界で撮影します。これ以上は無

理でした。コンクリ表面は原型を保っていることが

分かります。破壊されていないようです。

掩体壕2号の出口が向いていた水田地帯。かつ

てはここに滑走路があったのでしょうか。今は水

田と集落が広がります。

 

◆その他の掩体壕

 これらの有蓋掩帯の他にも、八日市飛行場跡周辺には無蓋掩体壕が10基ほど確認できるそうです。今回の取材で移動中にそれらしきモノをいくつか見ています。時間の都合で今回は取材していませんが、また機会を見つけて残る無蓋掩体壕も探してみます。

【八日市飛行場掩体壕 終わり】

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