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●掩体壕(その2)

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 所在地:大阪府八尾市垣内

 訪問日:2005年12月15日

◆掩体壕再び

 2005年(平17年)12月中旬に再び八尾の掩体壕を見に現地を訪れました。2004年(平16年)2月以来、約1年10ヶ月ぶりです。

 掩体壕に大きな変化はなく、以前と全く変わらぬ姿のままです。この日は冬晴れの良い天気で、青空の下の掩体壕は以前とはまた違う印象を受けました。

 詳しい取材は前回に行っているので、今回は周囲を歩いて外観だけの撮影と確認だけで終えています。

 この日、たまたま農家の方が農作業をしておられたで少し話を聞くことができました。畑の持ち主の方のようです。前回とほぼ同じ内容のお話でした。掩体壕については、撤去するのにかなりの金額が必要なのでこのまま放置しているそうです。あとしばらくは姿を見せてくれるようです。

 私のように見学に来る人が結構いるらしく、8月になるといろいろな方々(某団体でしょう)がやって来てはあれこれ話して帰るそうです。何を話しているかはおおよそ察しがつきますけどね・・・。

斜め前方より。04年2月の写真と比べると色鮮やかです。形が良く分かります。

横より撮影。奥行き(長さ)はこの倍ぐらいあった

ようです。

斜め後方より。畑付近までは延びていたと想像できます。

◆2つ目の掩体壕

 今回の調査の目的は、現存する掩体壕の近くにあったという第2掩体壕の調査でした。1948年(昭23年)頃に米軍によって撮影された空中写真には、現存する掩体壕のすぐ下にもう一つの掩体壕がはっきりと写っています。さらに調べると、1974年(昭49年)と85年(昭60年)に国土交通省(当時は建設省かな?)国土計画局が撮影した空中写真にもはっきりと写っていました。少なくても1985年頃までは掩体壕は2基残っていたことになります。

 右写真は1974年(昭49年)に撮影された空中写真。大きな丸で囲まれた範囲内に2基の掩体壕が写っているのが分かります。

 丸周辺を拡大したのが下写真。@が現存する掩体壕で、その左下のAで指しているのが現在はない撤去された掩体壕です。現在の付近一帯は宅地開発が進み、A周辺は宅地と化しています。

 @、Aとも半円形(扇形)をしています。@は半分になっていますが、Aは一部破壊を逃れほぼ原型をとどめているようです。上空何mから撮影したのか分かりませんが、結構大きな建造物だったことが分かります。

【写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

◆残っていた掩体壕

 この写真をもとにして大体の位置を推測して現地に向かいました。現存する掩体壕のすぐ近くにあることは分かったのですが、前述の通り付近一帯は宅地開発が進み写真撮影時とは全く違う風景になっていました。とりあえず現存掩体壕から南に向かうことにし、垣内から恩知北町方向に向かいます。道幅の狭い道ですが、地元車の通行が結構ある道です。

 現存掩体壕前を通る細い道からR170旧道方面に向かわずに直進します。左側(山側)は資材置き場のようで囲いで覆われおり、反対側には最近建てられた分譲住宅が数軒建ち並んでいます。工事の囲いが終わると石垣となりますが、何故か石垣の中に三角形のコンクリートが埋め込まれていることに気が付きました。R170旧道からの道との交差点から20mほどの場所です。

 それが右写真。どう考えても不自然な三角形のコンクリートです。石垣に挟まれています。明らかに後から石垣を積み上げたような状態です。石垣が足りないからコンクリートをぬったというのではありません。

 よくよく見ると、やたらと小石を含むコンクリートです。申し訳程度に細い鉄筋が入ってあります。色といい、コンクリートの状態からして、これが撤去された2基目の掩体壕の一部のようです。写真から位置を判断しても間違いないと思います。おそらく正面向かって右側の基礎に近い部分。端の部分だと思われます。

 完全に撤去されて跡形すらないと思っていたのですが、一部分だけとはいえ残っていたのには驚きでした。石垣を壊すことが無い限り、これでほぼ半永久的に掩体壕の一部分は残ることになりました。

別角度から。かつて畑だった場所に民家が建ち、

その石垣を造るときに埋め込まれたようです。

コンクリートの表面。やたらと小石が多いコンクリ

です。鉄筋が2本出ていました。

路面に近い部分。大きな石が混ざっています。典

型的な戦時中のコンクリ構造物です。

上部分。石垣と壁を造る際に埋め込んだことがよ

く分かります。

2基目の掩体壕があった場所。現在は資材置き

場となっています。

資材置き場内にあった謎の巨大コンクリ片。岩のよ

うですな。これも掩体壕の一部分でしょう。

◆他の掩体壕

 大正飛行場(現:八尾空港)の掩体壕は、八尾市垣内地区周辺以外にもありました。飛行場から離して分散して配置しないといざという時危ないからです。R170旧道(東高野街道)沿いにもいくつかあったそうですが、現在は撤去されてないそうです。

 戦後もしばらく残っていたのが飛行場の滑走路近くだったとか。現在の八尾空港を取り囲むように流れる水路より内側の地域は飛行場の敷地だった場所。このうちの飛行場南東部にあたる、八尾市太田新町から西弓削地区、ならびに柏原市本郷地区の一部に12基の掩体壕があったそうです。

 右写真は1974年(昭49年)に撮影された空中写真。右下で斜めに走っている道路がR170(外環状線)。広いグランドがあるのが柏原高校。高校はかつての飛行場敷地内に建っています。その北にあるのが八尾空港のB滑走路の端です。

 上写真の柏原高校周辺を拡大したのが下写真。丸で囲んだ場所になにやらこんもりした盛土が

見えます。共に写真右側(東方向)に正面を向けており、整然と並んでいるように見えます。何か掩体壕っぽく見えませんか?

 で、2005年12月に現地に行ってみましたが、残念ながら工場や運送会社の敷地となり完全に消えていました。丸で囲んだ部分が掩体壕だと推測しているのですが、残念ながら確証がありません。もしご存じの方がおられましたらご一報願います。m(_ _)m

【写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】

◆大正飛行場の名残

 八尾飛行場周辺には陸軍飛行場だった頃の名残があちこちにあるそうですが、今のところまだ見つけておりません。現在見つかるのは、飛行場への軍用貨物線跡と航空廠跡(敷地?)ぐらいです。八尾市西木の本町にあった航空廠通門の支柱ですが、道路拡張工事により撤去されて消失しています。(2005年12月確認)

 意外なことに、八尾駐屯地内に戦闘指揮所が残っていました。(2007年11月確認)

●八尾駐屯地内の戦闘指揮所

 2007年(平19年)11月に開催された『八尾駐屯地創立53周年及び中部方面航空隊創隊45周年記念行事』で八尾駐屯地を訪れた時に存在を確認しました。

 現在は『広報展示室』とされていますが、ご覧の通り戦争中の粗悪コンクリートでできていることが分かります。入口横にあった説明板には『大正飛行場戦闘指揮所』と書かれていました。普段立ち入ることのない駐屯地内に、飛行場時代の施設が残っていたのは意外でした。

 ただ老朽化が進行しており、近づいてみるとあちこちでコンクリートの剥離跡が見られました。大きな地震が来れば一発で倒壊しそうな状態です。近くに居た自衛官に尋ねてみると、予算がないので改修すらできないとのこと。展示室内には貴重な資料が展示されてい

るので、対策を講じて欲しいものです。

 ちなみに屋根にはT34A練習機が置かれています。

建物の表面。あちこちに亀裂が入り、コンクリが剥

離しています。

窓から見た天井。凄い量の石が混ぜられていま

す。よくぞ落ちてこないものです。

屋根上に置かれたT34A初等練習機。すでに用

途廃止となり展示機となっています。

【大正飛行場掩体壕 終わり】

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