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●帝国海軍高知飛行場 掩体壕【高知県南国市】 高知県南国市にある高知龍馬空港(旧称:高知空港)の前身が、帝国海軍航空隊の高知飛行場。 偵察要員の教育を主目的として、1941年(昭16年)1月に建設開始。大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1944年(昭19年)3月に完成しました。滑走路や誘導路、トーチカの他、基地周辺に 有蓋掩体壕9基と無蓋掩体壕が32、合計41基ほど建設されていたそうです。戦後はその多くが消失。現存しているのは有蓋掩体壕7基だけとなっています。
>>08.02.07 Update |
●高知飛行場 |
大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1944年(昭19年)3月、偵察要員育成のために開設されたのが帝国海軍高知飛行場。飛行場は当時の香美郡日章村(1942年に周辺3村を合併して誕生。現:南国市)に建設されたため、「日章第一海軍航空基地」ともいうそうです。 高知飛行場には偵察要員育成の練習航空隊である高知海軍航空隊が配置され、練習機「白菊」でもって日夜訓練に励んでいました。あくまでも練習部隊ということで実戦には参加していませんでしたが、訓練中の事故や敵の攻撃などにより命を落とされた隊員が数多くおられたそうです。 1945年(昭20年)に入ると戦局は悪化。練習部隊も教育訓練を中止して実戦部隊として前線に動員されることになります。同年3月、練習機「白菊」でもって『神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊』が編成されます。そして翌4月、連合軍の沖縄上陸を機に発令された菊水作戦に参加した『白菊隊』は、機上練習機「白菊」でもって特別攻撃に参加。高知航空基地から鹿屋基地や串良基地に進出し、両基地から飛びだった「白菊」のうち26機が敵艦に突入。搭乗員合計52名(注:「白菊」は2人乗り)の搭乗員が散華されました。 1945年(昭20年)6月21日の菊水10号作戦を最後に菊水作戦が終了すると、高知飛行場には「白菊」はなくなり、”航空機のない飛行場”となってしましました。基地自体も米艦載機や爆撃機の猛烈な攻撃により使用不能状態に陥っており、搭乗員・基地要員の多くは陸戦隊の訓練と予想される四国南部への連合軍上陸に備えての陣地建設に駆り出されたとのこと。そして8月に終戦。高知海軍航空隊は、開隊後1年半あまりで解隊となりました。 ちなみに高知県内では、高知飛行場の他にも第二高知飛行場(香美郡仁井田村)、第三高知飛行場(高岡郡窪川町)が建設中もしくは完成間近だったとのことです。 終戦後、高知飛行場には米軍が進駐。1954年(昭27年)の講和条約発効によって返還されます。その後は民間空港の『高知空港』として再出発。2003年(平15年)11月15日に『高知龍馬空港』に改称されて現在に至っています。 |
●高知飛行場掩体壕群 |
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広大な高知飛行場の敷地は、北西部はそのまま運輸省所轄となり高知空港になりましたが、掩体壕群のある現在の南国市前浜地区などの南西部一帯は農地に払い下げられました。(元の所有者に返還?) 誘導路は瞬く間に姿を消して農地などになりましたが、コンクリート製有蓋掩体壕の2基と全ての無蓋掩体壕は撤去されたものの、大型機用1基を含む合計7基の有蓋掩体壕は残り、現在に至っています。 |
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右写真は1975年(昭50年)に撮影された航空撮影写真。まだジェット旅客機に対応していない頃なので、滑走路は1500×30mしかなかった頃。ジェット機に対応して2000mに延長されたのは1983年(昭58年)頃です。現在は2500mにまで延長(2004年2月)されているので、写真左上方向に延びて県道が滑走路下をアンダーパスしています。 海軍航空基地時代の主滑走路はコンクリ舗装の1250m×60m。(これが今の滑走路の前身) このほかに1000m×40mの砂利敷き滑走路が2本存在していました。 1947年(昭22年)の米軍撮影の航空写真には、主滑走路を長辺とした三角形の滑走路が写っています。今は農地となって姿を消していますが、写真に写る |
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新秋田川と農業用水路とほぼ並行して南北と東西方向に2本の滑走路がありました。その2本の滑走路が交わる付近にあるのが前浜地区の掩体壕群。写真の赤枠で囲った内部に掩体壕群があります。この地区は1944年(昭19年)6月頃に接収されて誘導路と掩体壕が建設されたそうです。 掩体壕群を@〜Bのエリアに分けて拡大してみます。 |
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@のエリア 中央に南北通るのが高知県道前浜植野線(r31)。その西側に2基、東側に1基写っています。 掩体壕@が北西に、AとBが南東を向いています。おそらく@とAの間に誘導路が通っていたのでしょう。 写真には集落が写っていますが、基地用地として徴用された際に元の集落は破壊されているので、今の集落は戦後になってから復興された集落なのでしょう。今は農家などが建っている付近にも掩体壕があったのかもしれません。 |
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Aのエリア 下に掩体壕Aが写っています。@のエリアのすぐ真上に当たります。r31近くに1基、そこから離れた箇所にAを含めて3基が写っています。 DとEは南東を、Cは南を向いています。掩体壕@とAの間を通っていた誘導路は掩体壕Dの前を通っていたようです。 写真を見てお分かりの通り、掩体壕Cは他掩体壕に比べるとひときわ大きく写っています。掩体壕Cは大型機用掩体壕のようです。 |
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Bのエリア 大湊小学校付近のエリアです。掩体壕Dを含めて3基が写っています。r31の西側に掩体壕D、東側に掩体壕BとFがあります。 掩体壕Dの前を通っていたであろう誘導路は、そのまま掩体壕Fに続いていたようです。この先、高知空港に近づく方にも何基か存在していたかも知れません。 ここで注目すべき掩体壕はF。大湊小学校(元:前浜国民学校)西側を南北に通る道路上に存在しています。詳しくは後述しますが、見ての通り道路が掩体壕を貫いています。元々あった道路上に掩体壕Fが作られ、戦後に元に戻したとのこと。この掩体壕Fは”通り抜けられる”唯一の掩体壕でしょう。 |
各掩体壕の位置的関係を示すとこんな感じになります。 |
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この狭いエリアに、大型機用掩体壕1基を含めて7基もの掩体壕が現存しているのは奇跡でしょう。しかも7基とも100%確認できるという点でも大変貴重な掩体壕群と言えます。 注意>>掩体壕の番号は、あめふらし@管理人が勝手に付けた番号です。 |
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取材日:2007年5月12日/07年10月16日 【航空写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より】 |
◆掩体壕@ |
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前浜地区掩体壕群の中で最も海岸寄りの地点に位置する掩体壕。集落から少し離れた水田の中にあります。水田の中にあるために近づくことができないため、農道上からの撮影のみとなりました。 小型機用掩体壕のようで、正面入口は海軍型掩体壕独特の凸型をしています。外見上は松山基地の掩体壕とほぼ同じ形をしています。正面から見ると奥にも逆U字型の入口があります。大きさからして人の出入口のようです。後部入口があるのが、同じ海軍型の松山基地掩体壕との相違点となっています。 |
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掩体壕はかまぼこ型のコンクリート製となっており、むき出しのままとなっています。わずかに土が残り雑草が生えていました。 この土が完成時に盛られていた土の残りなのか、60年ほどの間に堆積した土なのかは分かりません。おそらくは盛られていた土の残りだと思います。 掩体壕@正面には機銃掃射の跡が生々しく残っていました。 |
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◆掩体壕A |
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掩体壕@のすぐ北側。農道を一本挟んだ向かい側にあります。掩体壕@とは逆方向、南東側に入口を向けていました。この正面には誘導路があったのでしょう。 掩体壕Aは雑草が生い茂る空き地の中にありました。もとは田畑の中にあったのでしょうけど、今は休耕田となっているようです。 当然のことながら掩体壕@と同じ形をしています。正面の凸型、後部の逆U字型の入口が認められます。近づいて内部を見ましたが、内部は意外と広く、松山基地の掩体壕よりも1.5倍ぐらい広いように感じました。整備も行っていたのでしょうか? |
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掩体壕表面を見ると、大きな石が混ざった粗悪なコンクリを使用しています。戦争末期の資材不足ゆえでしょう。コンクリ内部には鉄筋が入っているようですが、あちこちから漏水が見られ劣化が進んでいるようです。 |
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◆掩体壕B |
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集落の東側、大湊小学校の南西寄りにある掩体壕です。正面の状態がよく分かる掩体壕です。 高知基地掩体壕群には2007年(平19年)5月と10月の2回訪れています。5月は田植えの時期にあたり、まだ稲を植えたばかりなので正面は隠れておらず、形態がよく分かります。 @とAではよく分からなかった、正面入口下部の形態がはっきりと見えます。凸型というよりは横に長い十字型というべきでしょう。 |
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掩体壕Bは後方意外の3方向を農道上からつぶさに観察できる掩体壕でもあるので、形態を知る上ではちょうど良い掩体壕といえます。 |
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