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平成20年(2008年)4月18日(金)

■江田島へ

 呉遠征旅行2日目となる4月18日(金)を迎えた。昨日の雨が嘘のように朝から快晴だ。ヽ(゚∀゚)ノ 今日のメインは江田島の旧海軍兵学校の見学。それと道活動。どちらも雨だと気分が乗らない。

 起きたのは0615頃。出発準備をしてから0700より始まる無料朝食サービスのおにぎりとみそ汁を朝食とし、朝食後チェックアウトを済ませて0730にホテルを出発した。朝のラッシュに巻き込まれるかと思ったが、意外と広島市中心街は交通量が少ない。たまたま走った道が交通量の少ない道だったからだろうか?平和大通りからR487に出て宇品港に至るまでの間、渋滞に遭うことなくすんなりと移動できた。

 

 

 宇品港に到着したのは0743頃。0815発の上村汽船の便に乗るつもりでいたのだが、料金所ブースの係員に「まだ乗船できるから早く行って」と言われた。なので出航直前の0745発の便に乗り込んだ。フェリーに乗船するとすぐに出港。のんびりとフェリーターミナルを見学する暇はなかった。

 出港すると甲板係員がやって来たので料金を支払った。出港すると西側に虹がかかっていることに気が付いた。なんか得した気分。今日は良いことがありそうな気がする。(・∀・)イイ!! うれしがって車から降りて写真を撮影しているのは私だけ。観光客は私一人だけのようだ。

 上村汽船の広島宇品港〜切串港航路は、広島市街と江田島とを結ぶ航路。朝6時台〜晩20時台まで30〜50分おきに運行されており、島にとっては重要なフェリーとなる。フェリーは離島航路でよく見られるタイプ。船首・船尾の両方から乗り込めるようになっている。バイク・車は、切串では船首から、宇品港では船尾から乗り降りするようになっていた。今回乗船したのは『第八きりくし』。写真左が車輌甲板。写真右が船全景。

 フェリーはのんびりと広島湾を進み、約30分で切串港に到着。@管理人は車と共に江田島に上陸した。

■江田島ウロウロ

 地図で見ると島はいびつなY字型をしている。この島全体が江田島というのではなく、実際は江田島と能美島の2島からなり、両島は地続きとなっている。島の北東側の呉市に近い方が江田島、他が能美島ということになっている。

 さて切串港を0835頃に出発するが、海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)の見学開始まで2時間近くあったので、江田島内をウロウロする。江田島は瀬戸内(広島湾)に浮かぶ島ではあるが、中央部に険しい山があり、江田島の東海岸〜西海岸にぬけるR487は途中に短いながらも短いトンネル数本と急坂・急カーブが連続する山道となっていた。

 

 

 R487江田島区間を走り終えて第一術科学校前に向かう。門前に到着したのは0930頃。まだ時間的に余裕があったので、秋月トンネルという島中央部を貫くトンネルで再び島の東海岸に出た。海沿いの狭路ワインディング道路を走ると、しびれ峠という名の小さな峠に着いた。ここから呉市街と海上自衛隊呉基地を一望することができる。車を止めてしばし眺めを楽しむ。

 昨日、大和波止場から見えた大型タンカーが見える。その横に護衛艦数隻とその他艦艇の姿が見えた。艦名は不明だが、いかにも軍港らしい光景だった。 ちなみに東海岸を行く狭路道の下に米軍の秋月弾薬庫があることを知ったのは帰宅後のことだったりする・・・。

■海上自衛隊第一術科学校

 1000少し前に第一術科学校前に到着した。見学に来たこと告げて学校内に入って来客用駐車場に車を止めて受付に向かう。平日だが意外と多くの方達が見学に訪れていた。受付を済ませて待合所へ向かう前に正門を撮影する。

 

 

 学校の入口というのが正門というのだが、旧海軍兵学校では卒業生が練習船に乗り込むために短艇に乗り込む表桟橋が”正門”で、反対側(町側)の門は”裏門”と言っていたとのこと。今でもこのように呼んでいるのか確かめるのを忘れてた・・・。

 海上自衛隊第一術科学校の前身は、言わずと知れた旧帝国海軍の海軍兵学校。海軍兵学校の歴史は古く、明治2年(186

9年)9月に開設された海軍繰練所がその始まりとなる。海軍繰練所は翌3年(1870年)11月には海軍兵学寮と改称。そして明治6年(1873年)11月に最初の卒業生(第1期)2名が卒業。明治9年(1876年)8月末をもって海軍兵学寮は海軍兵学校に改称されることになる。以来数多くの海軍士官を輩出したが、終戦によって昭和20年(1945年)10月20日付で閉鎖。約77年の歴史に幕を下ろした。

 戦後は連合軍に接収されていたが、昭和31年(1956年)1月に返還。直ちに横須賀より術科学校が移転し、昭和33年(19

58年)4月から第一術科学校に改称されて現在に至っている。

 写真左が門標。旧海軍兵学校時代は勝海舟筆の『海軍兵学校』の門標があったという。写真右が正門(裏門?)入って少し進んだ所にある構内案内図。配置は兵学校時代からあまり変わっていないようだ。赤煉瓦で出来た幹部候補生学校庁舎(旧:海軍兵学校生徒館)など、旧海軍兵学校時代に建てられた施設も多く残っている。

 

 

 集合場所近くから撮影した術科学校。正面に見える建物が大講堂。案内板の裏側には売店や食堂の建物がある。構内は清掃が行き届いておりゴミなど落ちていない。日課なのか、学生さん達がきれいに清掃しているようだ。当日も学生さん達が清掃活動に従事していた。

 構内は勝手に行動するのではなく、案内役の方(海自OBさん)に引率されての見学となる。集合場所の建物に入ると20名近い見学者が集まっていた。海自のPRビデオが流されていたので、それを見てしばらく待つ。1030頃、案内役のOBさんが登場。構内見学の注意事項について説明されてから外に出て見学が始まった。

 構内には学生さん達の姿が目立つ。どことなくぎこちないところを見ると、今年(平成20年)4月に入ったばかりの生徒さんか幹部候補生達だろう。OBさんの現役時代の階級や職種は分からないが、何人かの方達と軽く会釈しているところを見ると、学校の教官をされていたのだろうか。

 構内道路を歩いて行くと、前から黒塗りの乗用車がやってきた。運転手含めて制服姿の自衛官4名が乗っていた。見ていると構内にいる制服を着ている現役自衛官(幹部候補生?)が車に敬礼していた。「?」と思って車を見てみると、フロントダッシュボードの上に桜2つが描かれた紙(透明ホルダーにいている)が置かれていた。どうやら乗車しているのは海将補のようだった。将官が乗った車は自衛隊の基地内などではこうして走るようだ。

 敷地内の建物の配置は、戦後に建てられた施設があるものの、基本的に旧兵学校時代からあまり変わっていないようだ。その旧海軍兵学校は開校当初から江田島にあったのではない。兵学校の前身である海軍繰練所は東京築地(現在の中央卸売市場の一部)に開校されている。江田島への移転が決まったのは、呉鎮守府開設が決まった明治19年(1886年)5月のこと。理由は”築地は都会に近いこと”からで、海と山に囲まれた江田島であれば外界との接触を避けることができ、一途に精神勉励に励むことができるからだとか。実際に現地に行けば分かるのだが、学校のある場所は周囲を山と海に囲まれており、呉市街の街の灯など見えない場所にある。

 江田島でが明治19年11月に兵学校校舎の建設が始まり、その校舎の完成をもって明治21年(1888年)8月に江田島に移転となった。移転当初は生徒館はなく、表桟橋に繋留された学習船東京丸を代用した。生徒館を含め各施設が完成したのは明治26年(1893年)6月のこととなった。

 

 

 案内されて最初に来たのが大講堂。この大講堂は明治45年(1912年)6月着工。大正6年(1917年)4月に落成した。瀬戸内産の花崗岩をもちいた荘厳な造りの建物で、兵学校時代から生徒の入校・卒業式に使用されている。連合軍に接収されていた間は、外壁にペンキが塗られてダンスホールとして使用されていたとか。返還後はペンキは全て剥がされて元の美しい姿に戻された。

 

 

 大講堂正面(北側)には天皇陛下や皇族方がお座りになる玉座が設けられている。玉座があるのが正面となるので、上写真は裏となる。構内は吹き抜け構造で、約2000名の収容能力がある。落成以来90年ほど経過しているが、外装および内部は当時のままとなっている。かつて多くの海軍士官達がこの玉座前に立ち卒業して行かれた。同じ場所に立つと感無量となる。(玉座に座ることは出来ないが、玉座をバックにして赤絨毯の上に立っての記念撮影は可)

 

 

 こちらが大講堂の北側面。最初に見えるのはこちら側となる。車付けがあるのは皇族方がご利用になるためだろう。前述の通り、玉座のある北側が大講堂正面ということになる。どの面にせよ大講堂は左右対称の美しい建物となっている。(・∀・)イイ!!

 大講堂の後に訪れたのが通称”赤煉瓦”と呼ばれる幹部候補生学校庁舎。旧海軍兵学校の生徒館で、明治26年(1893年)6月に落成した。生徒館は赤煉瓦造りの洋館2階建ての建物で、階上中央を監事部としてその両側に西洋式寝台を備えた生徒寝室が配置された。

 この赤煉瓦の生徒館を使用したのは第20期生以降。日露戦争における日本海海戦勝利の立役者の一人、秋山真之は明治23年(1890年)7月卒の第17期生。江田島移転後の初卒業生は第15期生からなので、秋山真之は江田島で学んでいる。しかし彼が卒業した当時は赤煉瓦の生徒館や大講堂(大正6年4月落成)はその姿を現していない。NHKでドラマ化される『坂の上の雲』ではどういうふうに撮影されるか楽しみなところである。

 

 

 生徒館も左右対称で均整の取れた美しい建物。落成後100年以上も経っているが、ほぼ当時のまま残されている。使用されている赤煉瓦の数は忘れたが、生徒館で使用されている赤煉瓦は全てイギリス産。一つ一つ丁寧に油紙に包まれて日本まで運ばれたという。実際、間近で赤煉瓦を見たのだが、とてもきれいな赤茶色をしていた。100年以上経つのに光沢を失っていない。さすが英吉利産だ。(・∀・)イイ!! 案内役のOBさんが「触れてもいいですよ」とおっしゃったので、触れてみたら実に滑らかな表面をしていた。(当時の)日本産赤煉瓦とは比較にならない煉瓦であった。

 

 

 残念ながら館内に入ることが出来なかったが、移動中にたまたま開いている扉があって少しだけ館内を見ることができた。それが上の写真。生徒館の廊下と通路。きれいに手入れされていた。

 煉瓦造りの建物として、他にも水交館や理化学講堂などがあるのだが、一般公開はされていないとのこと。団体申し込みであれば水交館も見学できるらしい。

 それにしてもこれらの建物が破壊されずに残ったことは幸いだった。戦後(占領後)の利用を考えて攻撃対象から外したのか、爆撃しずらい場所にあったためなのか、呉に近いことを考えると奇跡と言えよう。建物の被害はほとんどなかったようだが、残念なことに終戦直前の米艦載機による機銃掃射で、在籍していた兵学校学生に数名の戦死者が出ている。終戦間際は兵学校も戦場となっていたのだ。

 見学ルートとしては、この後教育参考館に向かうことになる。教育参考館は昭和11年(1936年)3月に完成したギリシャ神殿風の建築物。16000点近くに及ぶ旧海軍関係などの歴史的資料を収蔵しており、うち1200点余りを展示している。@管理人が訪れた平成20年(2008年)4月当時は、残念ながら改修工事中で入館できなかった。(´・ω・`)

 なので第1術科学校学生館1階に臨時展示室を設けており、そこでの見学となった。一部とはいえ、貴重な歴史的資料を見ることができた。ちなみに@管理人は、臨時展示室内で他の見学者の方と憲法やマスゴミの報道の有様、”正しい歴史観”について議論してしまった。(^^;)

 

 

 教育参考館横には特殊潜行艇「甲標的」(写真手前)と「海龍」(写真奥)が展示されている。ここで展示されている甲標的

昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃に参加した5隻のうちの1隻。昭和35年(1960年)6月に真珠湾港外で発見されて引き揚げられ返却されたもの。同年7月上旬には横須賀に帰還し、7月末に江田島に運ばれ展示された経緯を持つ。

 展示されている海龍は、大和ミュージアムで展示されていた「海龍」の試作3号艇。潜水学校での教育用として、外板を切り取り内部が見えるようになっていた。

 「甲標的」は大東亜戦争(太平洋戦争)開始に深く関わり、「海龍」はその終結時に主力攻撃兵器として待機していた。”特殊潜航艇で始まり特殊潜航艇で終わる・・・。”と説明文に書いていたのも頷ける。

 

 

 学校内には砲弾や錨などいくつかの展示物がある。上の写真、戦艦『陸奥』砲塔もその一つ。これは戦艦『陸奥』の主砲四番砲塔。昭和9年(1934年)〜昭和11年(1936年)にかけて行われた近代化改修の際に、新型と交換され取り外された旧砲塔

を教材用として移設したもの。終戦後に解体されずに残ったのは奇跡だろう。

 主砲は是非とも見たかったのだが、平日は作業・訓練があるので近づけず、この日は遠くから見るだけだった。(´・ω・`) 日曜祝日は近くから見ることができるそうなので、今度は日曜日にでも行ってみるか。

 教育参考館を出ると集合場所に引き返し解散。1時間20分ほどで見学が終わった。

 

 

 解散後、食堂に向かう。ツアーに参加していた70歳代の男性の方と同席。今日は金曜日なので『海軍カレー』を注文する。(゚д゚)ウマー 金曜日に海自の食堂に来たからはカレーを注文しないとね。

 食べながら同席した方といろいろ話す。何期かは分からないのだが、お兄さんが兵学校に在籍しておられた そうだ。またご自身も将来は兵学校に入学しようと思っていたので、一度来てみたかったそうだ。写真をたくさん撮影しておられたのはそういうことからだったのかと納得。そういう方もおられるのか。興味本位(というかミリタリ熱)で来た@管理人は赤面ですわ。(;´Д`)

 食後、土産物屋に移動。車なのでつい買いすぎてしまった。たくさんの土産物を持って術科学校を後にする@管理人ですた。今度は休日に来よう。

■呉を出る

 第一術科学校を出てから はR487で江田島〜能美島〜倉橋島〜本州というルートで呉市街に戻る。江田島・能美島、倉橋島はすべて橋で連絡されており、事実上は本州と陸続きのような状態になっているのだ。江田島から呉市街へは連絡船に乗ればすぐに移動できるのだが、今回のもう一つの目的であるR487走行があったので陸路経由で呉市街への移動となった。

 R487走行を終えて再び呉市街に戻ってきた。昨日訪れた「てつのくじら館」に向かい、快晴の青空をバックに「あきしお」を撮影する。 晴れているのでMTBで呉市街を走ろうかと思ったのだが、時刻はすでに1400時を過ぎている。今日はまだもう一つ寄らなくてならない所があるのでやめにする。

 

 

 1430、「てつのくじら館」前を出発して呉市街へ出る。ここからはR185で広島県福山市に向かう。R185は広島県呉市と福山市を結ぶ3ケタ国道。瀬戸内沿いの海岸線をひた走る道なのだが、広島県南端部の東西を結ぶ幹線道路なので整備されており交通量も多い。ただ場所によっては交通量が少なく快走できる場所もあって、快適なシーサイドランを楽しむことが出来る。

 このR185走行はどちらかというと移動がてらの走行となる。道ネタを集めながら淡々と東に向かい、次の目的地へと向かった。

■武智丸

 次に向かったのが呉市安浦町(旧:豊田郡安浦町)三津口という港町。詳しく書くなら、R185沿いから見える安浦漁港の防波堤に向かったのだ。1510頃に安浦漁港到着。国道上からは防波堤が見える。

 

 

 上写真がその防波堤。一見するとどこに出もあるコンクリ製の防波堤に見えるが、真ん中の部分に注目していただきたい。先端の赤い灯台から陸地(写真左方向)に向かって上縁をたどってゆくと、白い看板(文字が書かれている)数枚が掲げられている部分で下に窪んでいる。さらに左方向に向かうと上縁は元の高さに戻るが、赤い橋のある部分で再び窪む。防波堤としては形が不自然に見える。よく見ていないと気付かないのだが、この部分は実は元は『船』だったのだ。

 

 

 漁港近くの広場(駐車場?)に車を止めて歩いて近づくとよく分かる。上写真を見ても分かるとおり、2隻の船が堤防代わりに置かれていたのだ。干潮時だったので喫水線下の船底まで見えている。干潮時を狙って訪れたのではなく、たまたま訪れた時が干潮時だったのだ。

 鋼鉄製の船が防波堤には向いていない。終戦後、廃棄された旧帝国海軍の駆逐艦が防波堤代わりに置かれたことがあったが、腐食や埋め立てなどで姿を消してしまっている。ここにある船も旧帝国海軍が輸送船として建造した船であるが、材質は鋼鉄ではない。写真を見ていただければおわかりの通り、この船はコンクリート製の船なのだ。

 ここにあるのは特設輸送船として建造された「第一武智丸」と「第二武智丸」。武智丸は船舶建造用鋼材の不足を考えた旧海軍の艦政本部が建造を計画したコンクリート製の輸送船。昭和17年(1942年)から建造に関する研究が開始され、まずは昭和18年(1943年)〜昭和19年(1944年)にかけてコンクリ製の無人曳航式油槽船(バージ)が5隻建造され、それから輸送船が建造されることになった。

 「武智丸」はまずは第一〜第四まで4隻が建造されることになった。建造は兵庫県高砂市にあった塩田跡に建設されたドッグにて行われることになった。昭和19年(1944年)6月に「第一武智丸」が就役。続けて第二〜第四「武智丸」が就役した。「第四武智丸」は昭和20年(1945年)8月頃に就役している。計画では25隻の「武智丸」型コンクリ輸送船が建造されることになったが、資材のコンクリの不足と造船所側の所曲的姿勢により建造開始が遅れている間に終戦となってしまい、4隻だけの建造で終わっている。

 「武智丸」は主に瀬戸内海において運用されたが、どの船か分からないが遙か遠く南方まで航海したとも言われている。 戦争末期は米軍の投下した機雷のため、鋼鉄製の輸送船が瀬戸内海で触雷して被害を被っていたが、「武智丸」は触雷することもなく航行したという。

 終戦時、4隻のコンクリ輸送船は港などで係留されたり座礁放置されていた。そのうち第一と第二「武智丸」が、昭和25年(19

50年)、当時防波堤の無かった安浦漁港に防波堤として据え付けられることにな った。第一と第二「武智丸」が払い下げられ、当時のお金で八百万円という巨費を投じて据え付けられた。この防波堤、昭和48年(1973年)頃に取り壊して新しく作り直すという話が出たが、結局は取りやめとなり残ったそうだ。 なお第三と第四「武智丸」はそのまま放置されたりして、後に解体されたそうだ。

 

 

 陸側(左側)にあるのが「第一武智丸」。船首を左側に向けている。「第一武智丸」は終戦により廃船となり、呉で係留されていたのを払い下げを受けた。設置に際しては海底を掘ってコンクリ船を沈船させ、船体周囲を固定・安定させるための捨石を敷きつめた。第二も同じ方法で据え付けられている。

 

 

 沖側(右側)にあるのが「第二武智丸」。右側が船首となる。第一の船首はほとんどが砂に埋もれてしまっているので、船体全景を把握できるのは第二だけとなる。船首が茶色くなっているが、その部分には鉄板が付けられている。コンクリ船は全てが全てコンクリート製なのではなく、船首や支柱などには鉄筋が使用されている。今は防波堤と地元漁業の方々の物置として使用されている。

 訪れたときに話した地元の方によると、時々どこかの大学の教授やコンクリ会社が調査に来ることがあるそうだ。日本の造船技術史、船舶史、そしてコンクリート史に とって大変貴重な史料であることは間違いない。是非とも残してもらいたいものだ。

 なお、「武智丸」より前に5隻建造されたコンクリ製の無人曳航式油槽船の1隻が呉市音戸町坪井漁港に残っているそうだ。昼過ぎに近くを走っていたのに寄っていない・・・。_| ̄|○ また行ってきます・・・。

■尾道

 1550、安浦漁港出発。あとはひたすらR185を東に移動することになる。淡々と瀬戸内沿いの海岸線を進んで行く。晴れており暖かい。バイクで走ったらさぞかし気持ちが良いだろうなぁ・・・ (´・ω・`)

 1時間ほどで広島県三原市に到着。R487に続いてR185の実走調査を終える。これで今回の旅の目的はすべて達成できた。あとは大阪に帰るだけだ。時刻は1700頃。このまま山陽道で大阪に帰ってもなんなので、尾道まで移動してラーメンを食べてから帰ることにした。

 

 

 三原市からR2に入り東に向かう。併走するJR山陽本線を走る115系(3000番台)電車やEF200牽引の貨物列車を見ながら走った。

 1720頃に尾道市街に到着。市街中心地に入り、市役所近くの駐車場に車を止めて徒歩で移動。平17年(2005年)秋のツーリングで訪れたラーメン屋の場所が思い出せなかったので、また別のラーメン屋に入りラーメンを注文。少しお腹が空いていたので汁までたいらげた。(゚д゚)ウマー

 駐車場に戻る途中で、リヤカーを引いたおばあさんに呼び止められた。向島(だったかな?)の農家の方で、家で収穫した果物を売っているという。残念ながら名前を忘れてしまったが、見ると直径15cmほどの巨大な柑橘類の果物があった。車で来ていたので、その巨大な柑橘類を2つ購入すると、おまけで レモンをいくつかつけてくれた。帰宅後、家で食べたが、新鮮そのもので大変おいしかった。(゚д゚)ウマー

 せっかく尾道に来たのだからと、今度は尾道の渡船に乗って帰ることにした。MTBで回ろうかとも思ったが、もう夕方だったので車で乗船することにした。KSRUで何度か乗船しているのだが、車での乗船は今回が初めてとなる。

 駐車場すぐ横に”しまなみフェリー”の乗り場があったので、駐車場から車を出してそちらに移動。フェリーが出た直後だったので、戻ってくるまでしばらく待つことになった。料金を確認しようと看板を見ると、『平成20年4月30日をもって閉航します』と張り紙がしてあった。Σ(゚Д゚ ;) 利用者減により経営が苦しいところに、原油価格上昇が追い打ちをかけたそうだ。

 

 

 @管理人が初めて尾道に来たのは平成12年(2000年)5月のこと。KSRUを購入して1年ほどしてからで、購入当初から考えていた、しまなみ海道原付道を走って尾道に移動して尾道渡船に乗るという計画を実行に移したときだった。このときも含めて今回で4回目となる尾道訪問。そのたびに渡船に乗っている。この間約8年となるが、しまなみフェリーを含めると2航路が廃航となっている。

 やはり尾道大橋の開通が大きな原因で、主力であった乗用車の多くが尾道大橋に流れてしまったのだ。近く大橋も無料化されるということなので、そうなると渡船の存続はますます危うくなる。歩行者や自転車、車の運転が出来ない高齢者のお年寄りにとっては無くてはならない渡船、日常生活の一部となっている渡船が無くなることはないと思うが、今後さらなる廃航も考えられる。航路の統廃合や渡船の効率的な運用、尾道市の補助などの対策をしないと、尾道の風物詩が風前の灯火になるやも知れない。

 

 

 やってきたフェリーに他の車数台と乗り込む。買い物帰りや帰宅する会社員、高校生など10名ほどが乗り込んだ。皆が乗り込むとフェリーは桟橋を離れる。ダイヤはない。乗船する客や車がいなくなれば出発するのだ。遠くに尾道大橋を眺めがら、のんびりと対岸の向島を目指す。かつては造船業で栄えた尾道だが、今ある多くの造船所のクレーンは動いていない。

 5分ほどで対岸に到着。フェリーから浮き桟橋に移動し、係員に料金を渡して向島に上陸した。あっという間に移動できる尾道大橋では体験できない”船の旅”であった。

■大阪へ

 向島に渡ってからR317に出ようとするが、道に迷ったようでどんどんと町中に入ってしまった。やっとのことでR317に出たが、乗り場からかなり離れた場所であった。このまま渡船で戻ろうかと思ったが、西瀬戸自動車道の新尾道大橋を渡っていないことを思い出し、R317で向島ICまで移動。向島ICから西瀬戸自動車道に入った。新尾道大橋を渡って本州に戻る。R2BPに出て東に少し走って 、1830に福山西ICから山陽道に入った。

 山陽道に入ってしばらくしてから日没を迎える。あとは淡々と山陽道を東に向かう。1920、岡山県岡山市の吉備SAに到着。ここで15分ほど仮眠する。すっきりしたところで出発。再び東に向かうが、岡山から先が長く感じる。あまり速度を出さず淡々と走り続ける。中国道に入り西宮名塩SAに到着したのは2145頃。ここで遅めの夕食。

 2200過ぎに名塩SAを出発する。この時間帯だとまず渋滞はない。すぐに中国池田ICに到着し、阪神高速へ。自宅近くのガレージに到着したのは2240頃であった。

 ちなみに往路の中国池田〜西条間は約270kmで通行料金3700円(深夜割引適用)。復路の福山西〜中国池田間は約240kmで5300円(通常料金)だった。復路も深夜割引を狙えば良かったか。(;´Д`)

 今回は計画していた九州ツーリングが悪天候で延期したため、急遽実行に移した旅であった。なので下調べが十分にできておらず、主な場所だけの訪問となったが 、そこだけでも十分に楽しむことが出来た。ほかにもミリタリ的に興味ある場所もあったのだが、詳しい場所が分からなかったり時間がなかったりなどで訪れていない。いずれ再度訪れるつもりでいるので、その時にでも訪れてみようと思っている。いつのことになるのやら・・・。

【本日の走行距離 447km】

【呉ミリタリツアー2008 終わり】

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