■昭和の脱獄王 〜白鳥由栄〜

 放射状舎房の第四舎房に行くと、天井の梁(?)に脱獄するマネキン人形がありました。(・∀・)

「脱獄する受刑者のマネキンまで展示しているやん」と思っていたら、実際に脱獄した受刑者がいたそうな。Σ(゚Д゚;)マジッ!?

 その名も白鳥由栄(しらとりよしえ)。網走刑務所も含めて4回も脱獄したという、まさしく昭和の脱獄王です。

 白鳥は1907年(明治40年)7月に青森県に生まれました。成人してから豆腐屋を営みながらも裏家業として盗みを働いていましたが、1933年(昭8年)4月に仲間と盗みに入った家で殺人

を犯してしまいます。2年後の1935年(昭10年)8月に、その時の共犯者が捕まったことを知り自首して逮捕されます。白鳥は義理堅い人物だったそうです。同年12月青森刑務所に移送され、白鳥の獄中・脱獄生活が始まります。

1.青森刑務所

 青森刑務所での白鳥に対する態度は最悪で、今風に言えば「人権侵害だ!(@∀@)」と大騒ぎになるような扱いでした。この扱いに対して白鳥は脱獄を決意します。独房に収容されていた白鳥ですが、便所の汚物を捨てに行くときには外出を許されており、その時に周囲の状況を詳しく観察します。外出時に拾った針金で合い鍵を造りだして脱獄。1936年(昭11年)6月のことでした。(1回目の脱獄。白鳥28歳)

 しかし3日後には逮捕されます。同年11月、無期懲役が確定して青森刑務所に収監されました。

2.秋田刑務所

 1937年(昭12年)4月、白鳥は宮城刑務所を経て小菅刑務所(現:東京拘置所)に移監されます。小菅刑務所では普通の受刑者としての扱いを受けていましたが、1941年(昭16年)10月、戦時罪因移送令に基づき秋田刑務所に移監されました。

 秋田刑務所での扱いも酷いものでした。秋田刑務所では”鎮静房”という壁に銅板が貼られ、扉に孔もなければ窓もない独房でした。明かりは20kwの裸電球と天井にある鉄格子からの明かりのみ。そんな場所に白鳥は手錠をはめられたまま放り込まれたのでした。手錠を外されるのは食事と便所の時のみ。白鳥は扱いを改善してくれるよう頼みますが一切聞き入られません。ついに脱獄を決意。冬期になって手錠を外されたことから計画を進めて行きます。

 白鳥は天井にある鉄格子の周囲が腐りかけていることに注目。部屋の隅を使って天井に登ることを考え、看守が寝静まってから練習をしたそうです。練習の最中にブリキ片と錆びた釘を見つけます。釘でブリキ板の縁をギザビザにして即席ノコギリを作り出しました。これで鉄格子の周囲を切り始めたのです。看守の交代時間を狙い、一日たったの10分間だけの作業でした。やがて鉄格子の周囲を切り取ることに成功。脱獄の時を待ちます。

 1942年(昭17年)6月、暴風雨に紛れて鉄格子を外して天井より脱獄。刑務所の工場の丸太を足場にして壁を乗り越えて姿を消しました。(2回目の脱獄。白鳥34歳)

3.網走刑務所

 1942年(昭17年)9月中旬、白鳥は小菅刑務所の小林戒護主任の自宅を訪れます。小林は小菅刑務所で白鳥を普通の受刑者として扱った人でした。翌日、小林に付き添われて白鳥は自首。後に逃走罪について懲役3年の判決が言い渡されます。

そして1943年(昭18年)4月、白鳥は網走刑務所に移監されました。

 網走刑務所では第四舎房二十四房に収監されました。ここは凶悪犯用の特別房でした。ここでも酷い扱いを受け、これに腹を立てた腕力のあった白鳥は、力任せに手錠を何度か引きちぎったそうです。白鳥は手と足に鎖玉付きの錠をはめられ、房の床に転がされていました。手足の錠の当たる部分の肉が化膿してウジがわき、骨が露出したそうです。(;゚Д゚)

 錠を外されることはなく、食事は食器を口でくわえなくてはならず、また用便にも行けずに糞尿垂れ流しの状態だったそうです。週に一度だけ体を拭かれるぐらいで、風呂にも入らせてもらえず、白鳥は人間として扱われない状態でした。

 この扱いに、さすがの白鳥も観念したのか大人しくなりました。・・・というのはカモフラージュ。実は裏では着々と脱獄計画が進んでいました。白鳥はまず手足の自由を得るために、手錠を根気よくぶつけ咬んだりして緩めることに成功しました。つぎに独房の扉にあった視察孔の鉄格子がガタついていることに注目。白鳥は3ヶ月かけて根気よく鉄格子を揺らし続けて外します。

食事の味噌汁を少しづつ垂らして錆びさせたという話もあります。

 そして1944年(昭19年)8月末、停電により看守交代が遅れた時をチャンスとばかり、手足の手錠を外すと視察孔の鉄格子を取り除きます。視察孔に頭を入れ肩の関節を脱臼させて独房より脱出。天井によじ登り採光窓を破って屋外に出ます。工場の支柱を使って壁を乗り越え、ついに網走刑務所からの脱獄に成功しました。(3回目の脱獄。白鳥37歳)

【写真】白鳥は褌一丁の姿で脱獄しました。こんな感じで脱獄していったのでしょう。ちなみに脱獄するまでの時間は20分ほどだったそうです。

白鳥が収容された第二四房。特別房でした。

ここから脱獄したのです。

房内。他房に比べると床が高くなっていました。

実際は布団などあったのでしょうか?

白鳥が外した鉄格子。ここから脱獄したとのこと。

これだけあれば出ることが可能ですね。

4.札幌刑務所

 網走刑務所から脱獄した白鳥は2年間も山にこもりました。1946年(昭21年)8月、山から下りて札幌に向かう途中の白鳥は、とある地のスイカ畑横でスイカ泥棒に間違えられ、棒で殴りかかる農夫を殺してしまいます。そして逮捕。ついに死刑判決が下され、1947年(昭22年)2月札幌刑務所に収監されました。

 過去3回も脱獄したこともある白鳥だけに、刑務所側も24時間体制で監視を始めます。特別房が用意され、扉・窓・鉄格子・採光窓など全て補強されていました。ここでも白鳥は脱獄を計画します。白鳥が目を付けたのは床でした。桶のタガを取り外し、取り調べの時に手に入れた釘を使ってまたもや即席のノコギリをつくります。あとは床を根気よく、見つからないように床を切って行きました。

 そして1947年(昭22年)3月、床板を切って床下に出た白鳥は、食器と手で2mほど土を掘りながら進み外に出ます。雪があったために簡単に壁を乗り越えることに成功。札幌刑務所も脱獄しました。(4回目の脱獄。白鳥39歳)

5.その後の白鳥

 札幌刑務所を脱獄した白鳥は、その後300日間ほど逃亡生活を続けます。1948年(昭23年)1月、白鳥は札幌で職務質問を受けて逮捕されました。同年5月、札幌高裁で死刑判決は破棄され(傷害致死と認定された)、懲役20年の刑が言い渡されます。

 同年7月、GHQの命令により仕立てられた特別列車でもって東京の府中刑務所に移送・収監されます。府中刑務所では、白鳥を普通の受刑者として扱いました。白鳥は脱獄することもなく刑に服し、やがて模範囚となります。1961年(昭36年)12月22日、白鳥は仮出所。刑を勤め上げました。(白鳥54歳)

 出所後の白鳥は更正保護施設に2年ほどいたのち、点々と住む場所を変えながら建設現場で働いて生活費を稼いでいきます。高度成長期でビルの建設ラッシュだったので、働く場所には困らなかったのでしょう。

 1978年(昭54年)2月24日、白鳥由栄はこの世を去ります。死因は心筋梗塞。享年71歳でした。最初に収監されたときに離婚して家族と別れていたので、家族の者にみとめられることなくこの世を去りました。白鳥は、出所後、長女を遠くから眺めて帰ることがたびたびあったそうですが、結局最後まで家族とは会うことはなかったそうです。

●白鳥の脱獄で刑務所が変わった?

 白鳥由栄は凄い信念を持っていた人物であったようです。計4回も脱獄していますが、刑務所側の自分に対する扱いや理不尽さに対する抗議行動として脱獄を繰り返したと言われています。(札幌刑務所は死刑判決に対する抗議という話があります。)

白鳥の脱獄がきっかけとなり、刑務所の対応が変わったというのは(刑務所)関係者の間では有名な話だそうです。ただ時代が時代だけに、刑務所側の対応もそうならざる得なかったという面もあるのですがね・・・。

 白鳥は1935年(昭8年)〜1961年(昭36年)までの約28年間のほとんどを獄中と脱獄で過ごしていたわけです。出所して世間に出てきたのは戦後復興が終わって高度成長期が始まる頃。東京ではビルの建設ラッシュが始まり、東京オリンピックに向けて日本中が走り出していた時です。出所した時の白鳥の気持ちはどんなものだったのでしょうか?浦島太郎のような気分になったのではないですかね。

 この白鳥の人生は、吉村昭氏の『破獄』のモデルとなり、1985年(昭60年)NHKで緒方拳や津川雅彦出演でドラマ化されました。

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