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2005年9月21日(水)

●美幌峠

 今日も朝から気持ちの良い青空が広がります。絶好のツーリング日和ですが、本日はKSRUはお休み。スパイクでの移動となります。

 出発組を見送って9時半頃に出発。美留和から対角線的に走るショートカット道で一気にR243に出ます。そこから美幌峠目指して走ります。今日から『秋の交通安全週間』が始まると言うことなので、見通しの良い直線区間ではかなり慎重になって走ります。199

8年(平10年)9月の北海道ツーリングで28k/hオーバーで捕まった苦い思い出が蘇ります。警察主催のサイン会が開催されているのではないかと思われたパーキン グを過ぎ

ると、あとは森林の中をひた走ります。やがて上り坂になり、急カーブが連続するワインディング区間に突入。1600ccのスパイクながら急勾配の上り坂も楽勝です。10時に美幌峠に到着。峠も当然のことなが快晴。峠からみる屈斜路湖と青空が見事な風景を作り出していました。

【写真】快晴の美幌峠から見た屈斜路湖。

●サンゴ草

 美幌峠を越えて下りワインディングをクリアして美幌町の丘陵地帯に入ります。美幌町の丘陵地帯も、道央の美瑛と同じくパッチワークが広がる地帯です。観光地化されていない分、美瑛よりも(素という意味での)自然に近い気がします。ここ数年は美幌町の丘陵地帯が気に入っています。ふと国道から離れて丘陵地帯をウロウロして撮影ポイントを探しますが、”ここ”という場所が見つかりません。KSRUで来て半日がかりで走って探さないとならないようです。今日は予定があるのでほどほどにして美幌市街へと向かいます。

 美幌市街からは混雑するR39に入り、北見市方向に向かいます。網走川を渡った所で右折してr248(道道喜多山美幌線)に入り北上。さらにr591(道道喜多山卯原内停車場線)に入り、一気にサンゴ草のある 卯原内の能取湖へ向かいます。このルートだと、美幌市街からR39〜R238を経由せずに卯原内に出ることが出来るです。いわゆる近道というやつです。道路も整備されており走りやすい道でした。 

 2001年(平13年)に来た時はシーズンが終わった後で、ちらほらと赤いサンゴ草が見れただけでした。今年はシーズン真っ只中ということで、一面に赤い絨毯を引いたような状態となっています。そのサンゴ草の間を小さな水鳥やカモメがちょこまかと動き回る姿は見ているだけで楽しめます。

 サンゴ草のハイシーズンということは、訪れる観光客も多いということ。観光バスがひっきりなしに出入りして団体さんがどやどやと遊歩道を歩いています。数

名の写真愛好家の姿も見られ、三脚に高そうな一眼レフカメラを備え付けてシ

ャッターチャンスを狙っていました。

 美幌峠では快晴だったのに、卯原内まで来ると雲が出始めていました。それでも時々雲の隙間から陽が射すと綺麗なサンゴ草の姿を見ることが出来ました。たまたま会話したおっちゃんは朝から来ているが、天気が今ひとつなので残念だとか。もう少しゆっくりしたかったのですが、人が多すぎるので退却して次の目的に向かいます。

【写真 】赤い絨毯のようなのがサンゴ草。能取湖湖岸に群生しています。天気が今ひとつだったのが残念。

●網走監獄博物館

 次に向かったのが『網走監獄博物館』。その名の通り刑務所の博物館です。網走には 何度か来ていたのですが、ここを訪れるのは今回が初めてでした。

 さて『網走監獄博物館』は、数々のヤクザ映画などで有名になった網走刑務所において、実際に1984年(昭59年)まで使用されていた監舎などをそのまま移設したものです。

 網走刑務所の前身となったのは、1890年(明治23年)に建設された「網走因徒外役所」という釧路集治監(刑務所?)の一施設でした。中央道路(札幌〜旭川〜網走)建設のために送り込まれた因徒の収容施設として建設されたのが始まりです。翌1891年(明治24年)に「北海道集治監網走分監」として独立。1903年(明治36年)に「網走監獄」の名前が生まれたとのこと。以来、

”最果ての刑務所”として不動の地位を築いています。

【写真】網走監獄博物館正門。看守のマネキンが立っています。

 元々の建物は1909年(明治42年)の大火災でほとんどが焼失してしまいました。直ちに復旧

工事が開始され、1912年(明治45年)には復活。このときに建設されたのが庁舎や博物館の敷地内にある最大の建築物である「五翼放射状舎房」など。これらの建物は最長で1912年(明治45年)〜1987年(昭和62年)まで75年もの間現役の施設として使用されていました。そして網走刑務所の近代化工事によってお役ご免となった建物群が移設されてオープンしたのが、この『網走監獄博物館』というわけです。

 博物館入口となる網走監獄の正門から入ります。煉瓦造りの重厚な正門です。入るとすぐ正面に監獄の庁舎が建っています。刑務所の中枢ともいうべき施設だそうです。西洋風の立派な木造建物で、明治時代の網走周辺ではかなり近代的な建物だったに違いありません。この建物は1987年(昭62年)まで使用され、ここに移設してきました。

 釧路地裁網走支部法廷再現棟も移設してきた建物の一つ。外見こそ再現したものですが、内部の法廷や椅子・カーテンに至るまでほとんどのモノが、1954年(昭27年)〜1991年(平3年)まで実際に使用されていたそうです。判決に一喜一憂した人々の思いが染みついているので

すな・・・(゚Д゚ ;) 【写真】再現された裁判所。内部には法廷が再現されています。

 順路に従って歩いて行くと、これら移設建物の他にもいろいろな建物が再現されており、実際に使用されていた器具が展示され、またはマネキン人形が配置されて当時の様子を再現していました。

 網走刑務所に関する博物館だけあって、舎内での様子や使役などの資料などが豊富にあります。興味深い施設です。

●網走監獄博物館2 〜監獄食〜

 外れにある(旧)二見ヶ岡農場棟に移動します。ここは網走刑務所農作業施設にあった建物を1999年(平11年)に移設したものです。棟内には実際に使用されていた食堂があります。食堂もそのまま移設。食堂の厨房にはおばちゃんもいます。なんと厨房とそこで働く料理人まで再現しているのです・・・ヘ(^o^ヘ)\(_ _;)<ウソカクナ・・・ 

 食堂では実際に刑務所で出されている監獄食を食べることができます。監獄食を作るためにおばちゃん達がいるのです。(^^;) これは面白そうだと、昼食として監獄食を食べることにしました。

【写真】これが監獄食。『監』と書かれた食器がいいですね。ヽ(゚∀゚)ノ

 観光客向けにアレンジされていますが、麦飯と塩鮭、みそ汁とお総菜という質素な食事です。カロリー計算などもなされているので、これをしばらく食べていればダイエットができます。

 この日のメニューは・・・

焼き魚(鮭)/シルバーサラダ/キャベツとひじきのソテー/ごはん(麦3:米7)/味噌汁

・・・という内容。これで総カロリー約632カロリーだそうです。実際に出されている監獄食(昼食)の場合は、味噌汁の代わりに番茶が出ているとのこと。食堂には監獄食を食べているマネキン人形の囚人群も再現されています。こちらは明治〜大正にかけての朝食風景を再現しており、米(麦6:米4)と味噌汁(?)だけの寂しい食事でした。

 囚人マネキン群の横の食卓で食事をします。横を向くと囚人。後ろを振り返ると看守。何となく囚人になったような気分です。

監獄食は思った以上に美味しくいただけました。(゚д゚)ウマー 器には『監』と書かれており、これをデザインした食器を作って販売すれば面白いだとうと思ったのは@管理人だけではないでしょう。囚人と一緒に食べる疑似体験ができて、これで計500円也。監獄博物館を訪れた時には是非ご賞味下さい。

注意>>監獄食は4月下旬〜10月下旬の期間限定。11:00〜15:00(オーダーストップ14:30)のみの提供となります。 冬期は建物が閉鎖されます。

明治時代の囚人さん(のマネキン)が食事中。

その横で食事することができます。

左を向くと囚人さん。そのむこうにゃ看守が・・・。

なんとなく囚人になった気分?(;´∀`)

すべて頂きました。ごちそうさまでした。

食べ終わると『監』の文字が・・・。(・∀・)

●網走監獄博物館 3

 二見ヶ岡農場棟の一角には舎房があります。木造行刑施設としては日本最古の建物で、1896年(明治29年)に建設された建物内にありました。1999年(平11年)に現地に移設復原されています。

 廊下を挟んで向かい合わせで房が設けられていますが、格子や視察孔などは受刑者同士の視線と看守の監視を配慮した設計となっています。網走刑務所の本舎と同じ造りとなっています。時代と共に改修などが行われたそうで、壁を撤去してアコーディオンカーテンで仕切って個室を確保するなどの工夫も行われていたそうです。【写真】舎房内部。廊下にずらりと房がならんでいます。

 薄暗い舎内にずらりと並ぶ舎房。重たそうな木造の扉が並んで見えます。幅20cmぐらいありそうな木柱で作られた格子の間隔は15cmぐらいでしょう。見ていると江戸時代の”牢屋”のイメージに近い感じで

す。扉一つに房一つという配置で、舎房の広さはおおよそ3畳ぐらいの広さです。中央の壁を撤去されているので広く感じますが、撤去されていない房であれば狭く感じますね。

 房の一角には便所が設けられています。便所と言っても一変40cmぐらいの正方形型の穴があるだけで、撤去されたのかも知れませんが便器は付いていません。壁の高い位置には窓があります。

    |         |  
    |  ('A`)   | ←こんな感じで入るのでしょうか?(;´∀`)
   / ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄/
 

 房内には暖房器はありません。廊下にストーブが置かれる台があるだけですが、冬はかなり寒そうな気がします。木の床に布団をひいて寝ていたわけですが、寝ることができたのでしょうか?

いたせりつくせりで快適だと言われてる現代の舎房には入ったことがないので比較は出来ません

が、木の床だけでなにもない昔の房の方が”刑務所”らしいですね。”監獄体験”ということで、ここの舎房に一泊するというイベントでもしてもらいたいものです。【写真】房の写真です。中央の壁を撤去しています。左の角に便所があります。

 農場棟を出ると雨が降ってきました。傘を持っていなくても心配ご無用。各棟には無料の傘が貸し出されています。傘をさして 「五翼放射状舎房」に移動します。この舎房棟も実際に使用されていた建物で、1912年(明治45年)に建設され1984年(昭和59年)まで実に72年間も現役舎房として使用されていたことになります。 完全な形で残る木造舎房としては日本唯一の存在です。

 放射状舎房は中央見張所を中心として5本の指を放射状に広げたような構造になっています。少人数で監視しやすいようにするため、こういう構造になったとのこと。5棟合計で雑居房126室、独居房100室の計226室があります。雑居房の収容定員は3〜5名で6畳ぐらいの広さ。独居房は3畳ぐらいの広さです。【写真】放射状舎房の内部。立っているのは看守のマネキンです。

 5つある舎房のうち、公開されているのは第一舎房と第四舎房のみ。第二・第三舎房は見張所から見るだけとなっており、内部に入ることはできません。まずは第一舎房に向かい見学します。

 ここの舎房も小さな便所があるだけの何もない 小さな房です。入口は太い木柱で出来た重たい木扉。どでかい五右衛門錠が付けられています。厚さのある木柱の格子で仕切られています。この格子はうまく

配置されていて、廊下から内部を見ることは出来ますが、房内部から廊下の反対側にある房を見ることができないようになっています。うまくスライドさせて造られているのです。房には何体かのマネキンがありました。妙にリアルです。

 見張所からの眺めも良く、監視しやすい造りになっています。こうも監視されていては脱獄は難しいかと思われますが、実際にこの監獄から脱獄した受刑者がいたというから驚きです。博物館ではこの受刑者までもマネキン人形にて再現されています。

 順路に従って進むと、最後の方に大浴場を見ることが出来ました。背中に入れ墨を彫ったマネキン人形が風呂に入っている様子まで再現されています。当時の最大の楽しみは入浴だったそうです。そりゃ、あんな狭く薄ら暗くて寒い中に居れば気が滅入るというものです。恐らく今でも同じなんでしょう。

 最後に大講堂のような 教誨(きょうかい)堂を見学すると出口に到着します。入口で撮影した記念写真が売ってありました。昔は撮影後、急いでフィルムを現像し写真を焼き付けていたのが、今はデジカメで撮影してデータを送ってプリントアウトするだけで写真が出来上がります。自分の写真が処分されるのは嫌なので1000円出して購入しました。出来れば デジカメ写真のデータも欲しいものです。

封筒作りの作業に励む受刑者を再現したマネキ

ン。こんな感じで再現されております。

雑居房での食事を再現。妙にリアルです。食事は

楽しみの一つだったとか。

扇で言えば要の部分にある見張所。各舎房がよ

く見えました。

浴場。1983年(昭58年)まで現役だったそうで

す。脱衣〜入浴〜着衣まで時間が決められ、段

取りよく15分で入浴を終えていたとか。

両脇にある小さな建物は両方とも独居房です。

扉を閉めると内部はほとんど真っ暗になるようで

す。この奥には炭焼き小屋があります。

教誨(きょうかい)堂。和洋折衷の建物です。

教化指導に使われていましたが、後に講堂や体

育館として使用されるようになりました。

●『ましゅまろ』3泊目

 土産物を買って監獄博物館を出ると雨は上がっていました。雨が降ったため気温が一気に下がって肌寒く感じます。14時半過ぎに出発。網走市街に出てR244を東に向かいます。このルートを走るのは5年ぶりです。途中で道道に入って小清水に出、

宿の主人に教えてもらった『桜の滝』に向かいます。 

 町から離れて『桜の滝』と書かれた看板が設置されており、それに従って進んで行けば着くようになっています。道の末端は砂利ダートとなり、滝近くの広場も砂利広場でしたが、車なので問題なく到着。広場から熊でも出てきそうな林の中を歩いて行くと滝に出ました。この時期だと”鱒の滝登り”を見ることが出来るのだそうですが、気温が低くなったためか姿は見えません。小さな魚の姿が見えるぐらいです。しばらく居ましたが、諦めて立ち去りました。

 その後、川湯温泉街の温泉宿『湯口閣』に立ち寄り、温泉に浸かってのんびりします。平日の16時半過ぎということもあってか、@管理人以外には誰もおらず貸し切りです。普段なら仕事で

忙しい時間なのに、1人でのんびりと温泉に浸かる@管理人。露天風呂に浸かって非日常の時間を過ごすのでした。( ´∀`)

 17時過ぎに宿に帰ります。夕食の後に少し寝ますが、21時には目が覚めて夜の宴会に参加。いろいろな話題で盛り上がり、とほ宿らしい宴会となりました。

【写真】「桜の滝」。最近はメジャーな場所となったそうです。

2005年9月22日(木)

●のんびりと移動

 残念ながら今日は『ましゅまろ』から離れなければなりません。朝食後に荷造りをします。その後、KSRUで宿近くのダート道を走って小さな草原で1人撮影大会。硫黄岳をバックにKSRUを撮影。KSRUで北海道を走ったという確かな証拠を記録しておきました。

 宿に戻って荷物をスパイクに積み込みます。今日は道北の浜頓別まで移動することになっていますが、さすがにKSRUで浜頓 別まで移動するのは難しいので、途中の紋別付近まで走ってやろうと計画します。スパイクは@嫁運転です。

 宿主の見送りを受けて、10時前に『ましゅまろ』を出発。弟子屈市街に向かい、酒屋でお土産用のご当地ビールを購入してから美幌峠に向かいます。R243を快走して11時少し前に美幌峠に到着。美幌峠は晴れていましたが、気温が低く寒く感じます。今年は秋の訪れが早いとか。

 寒かったので早々に出発。峠を下って平野部に出ます。平野部では取り締まりを警戒して慎重に走行。美幌市街からはR39に入り端野に向かいます。トラックが多いためにR39では移動ペースが落ちてしまいます。そんな中、道路脇に停車していた速度測定機付きパトカーを追い抜きます。獲物を求めていたようですが、車列内にいたのでお咎めなく無事通り過ぎました。

 北見市に入るとR39は片側2車線の4車線道になりますが、皆なぜか速度を出して走ろうとしません。取り締まりの多い区間なのでしょうか?こういう時は地元車の流れに合わせて走るのが鉄則。流れに合わせてのんびりと走って行きます。

【写真】遠くに硫黄岳を見て記念撮影。

●R333西へ

 端野からR333に入って遠軽へ向かいます。前回走ったのは2001年(平13年)9月のツーリングの時以来なので、実に4年ぶりの走行となります。端野のR39交差点〜R242交差点の間はここ数年で大きく様変わりした区間なので、今回走っておきたかったのです。はい、もちろん道ネタサイトのネタ集めです。

 交通量の少ないR333を快走。付け替えトンネルや整備された2車線道を淡々と走って、やがて常呂郡佐呂間町と遠軽郡遠軽町生田原(旧:遠軽郡生田原町)との境にある旭峠にさしかかります。この峠には2002年(平14年)に旭トンネルが開通しています。このトンネルは将来は遠軽北見自動車道の一部となるトンネル。他の自動車道区間が出来ていないのでトンネル部分だけ無料開放されて先行供用されました。自動車専用道路なので原付2種のKSRUでは走ることが出来ません。KSRUは峠を越える旧道を走ることになります。@嫁に適当な所で待っておくよう指

示しておいて、@嫁は旭トンネルへ、@管理には峠にある旭野トンネル目指して旧道へむかいました。

 旧道自体は町道に降格となってしまいましたが、迂回路ということで整備は行われているので走行には支障はありません。ゆっくりとネタを集めながらの走行となります。北海道国道のトンネルとしては幅の狭い旭野トンネルを通過して遠軽町生田原へ。

ゆっくりと坂を下って現R333との合流点に到着します。旧道を走っていた間に出会った車は0でした。

 合流点付近にスパイク@嫁運転の姿はありません。先に進んだようなので急ぎ追いかけます。スパイク@嫁運転は遠軽町生田原安国の町中で待っておりました。合流して再び走行開始。R242に入り遠軽市街へ入ります。

【写真】広大な畑が広がる端野町。R333より撮影。

●@嫁、行方不明・・・

 遠軽市街 でホクレンGSを見つけたので、ここで給油することにします。信号待ちの時に、@嫁にこの先のコンビニで待つように伝えて交差点角にあるGSに入ります。給油後、交差点からR242本線に出ると、前をいきなり黒猫が横切りました。Σ(゚Д゚;)これには焦りました。後輪をロックさせ て急停車。向こうから車が接近してきますが、黒猫は対向車線も無事に横切り町中へと消えて行きました。歩道にいて一部始終を見ていた小学生の女の子もホッとしておりました。この後、中湧別市街でも黒猫の横断を目撃。なんか猫の目撃率が高い日です。

 さて@嫁と合流すべく中湧別方面に向かいます。しかし最初のコンビニにはスパイク@嫁運転の姿は見えず。それならと次のコンビニに向かいますが、次のコンビニに着く前に遠軽市街を出てしまいました。(;´∀`) まぁ、そのうちコンビニがあるだろうと思って淡々と進んで行きますが、ひたすら畑と農家が点在するだけでコンビニはありません。20kmほど走って中湧別市街に入り、市街最初のコンビニに到着。もちろんスパイク@嫁運転の姿は見あたらず・・・。どうやら完全にはぐれてしまったようです。(;゚д゚)

 「こりゃやばいなぁ〜」と携帯電話を取り出します。@嫁からメールが多数着信していました。走行中、メールを見ることができるわけないやん。

 

とりあえず@嫁に電話します。

@嫁:「どこにいんの?」←かなり機嫌の悪い 低い声

@管理人:「遠軽市街から約20km離れた中湧別という町のコンビニ」

@嫁:「はぁ?GS近くで待っていると言うたやん。GS近くのパチンコ(?)の駐車場に居たんやけど?」←さらにトーンが下がる。

@管理人:「そんなん知りまへんがな。コンビニで待っていろと言うたやろ」

 確かにパチンコか大型量販店があったような気がしましたが、黒猫の横断に気を取られてスパイクが止まっていることには気が付かなかったようです。

@管理人:「とにかくそこから移動して中湧別まで来なさい。」

・・・と言って電話を切ります。一本道なので迷うことはまずないでしょう。

 

 約20分後、スパイク@嫁運転が到着。かな〜〜〜り機嫌が悪いのが分かります。ここであれこれ言っても始まらないので、そのまま道の駅『なかゆうべつ』に移動。紋別方面の雲行きが怪しいので、ここでKSRUをスパイクに積み込むことにしました。道の駅にはいつの間にか温泉が出来、整備されて数年前訪れた時とは全く変わっていました。駅ホームの一部と展示車両には変化はないようですが、除雪車が無くなっていたような気がします。

 それはともかく、かなり機嫌の悪い@嫁はほとんど喋らずにじっと作業を見ておりました。だんだんこっちも腹が立ってきましたが、今更どうこう言っても仕方ありません。合流できたのだから良しとして気持ちを切り替えて道の駅を出発しました。

●ひたすら走る・・・

 15時40分頃に道の駅を出発します。中湧別からはR238を走ることになます。1995年(平7年)9月末の初北海道ツーリング、そして2000年(平12年)9月のツーリング 時にバイクで走った道です。同じ風景が延々と続く単調な道を、今年は車で走ることになるのです。

 さて道の駅『紋別』で遅い昼飯にしようかと思ったのですが、店が営業しているのかどうかが分からず、駐車場を一周しただけで立ち去ります。結局、R237交差点角にあるコンビニでパンなどを購入して昼飯としました。この頃には@嫁の機嫌も少しは直ったようで、中湧別から1時間ほどしてやっと”雪融け”です。(;´∀`)

 紋別を過ぎると雨雲が接近しているようで、ポツリポツリと小雨が降り始めました。オホーツク海沿いらしい天気といえばそうなります。紋別市街から浜頓別方向に向かって走ります。興部付近まで交通量が多かったのですが、興部の町を抜けると交通量は一気に減り、走る車は疎らとなりました。あとはオホーツク海の海岸沿いを延々と走り続けることになります。進行方向右はオホーツク海、左は広野や畑。R238は同じような風景が延々と続く単調な道です。

 紋別から浜頓別までは約140km。2時間ほどで到着できる距離ですが、実際に走ると長い道のりです。枝幸を過ぎるとだんだんと暗くなり始めます。雨雲は紋別周辺だけにあっただけのようで、北緯45度線を過ぎて浜頓別町に入ると晴れていました。

 17時半頃、日没直前の浜頓別市街にやっと到着。R275交差点角にあるGSで給油してから、夕陽を見るためにクッチャロ湖に移動。ぎりぎり間に合い、日没時のクッチャロ湖を撮影することが出来ました。しかし蚊の多いクッチャロ湖でした。

【写真】北緯45度線通過点にはモニュメントが建っています。

●北海道最後の宿

 今日、宿泊するのは浜頓別温泉にある温泉ホテルの『ウィング』。2000年9月のツーリングで、浜頓別のとほ宿『トシカの宿』に宿泊した時に皆と一緒に入りに来た温泉ホテルです。値は張るのですが、北海道滞在最後の一晩ぐらいホテルに泊まろうというわけで宿泊したのです。

 豪華な夕食を食べた後に温泉へ。誰もいない広い浴室は貸し切り状態。ヌルヌルした温泉に浸かり長旅の疲れを癒します。

部屋に戻るとどっと疲れが出たようです。やがて眠たくなったので寝ることしました。いよいよ明日は離道です。

 ちなみに本日の走行距離は321km。(スパイクのメーターによる) KSRUでは170km走行しています。疲れたわけです。

【写真】クッチャロ湖の日没。雲が多いのが残念でした。

2005年9月23日(金)

●浅芽野陸軍航空基地掩体壕

 北海道滞在最後の日となりました。朝6時頃に起きるつもりが、目が覚めたのは7時頃。朝食を食べてから荷物をまとめて精算してホテルを出ます。天候は曇り。夜に雨でも降ったのだろうか、路面が濡れている。道北の今日は雨のち曇りという天気だとか。KSRUで宗谷岬まで走ろうかと思ったのですが、しばらく様子見と言うことでスパイクに積んだまま出発します。

 クッチャロ湖に立ち寄った後、R238に出て北上します。小雨が降り始めたようでフロントガラスに水滴がつきます。最後の日は雨のようです。浜頓別から15kmほど北上すると浅芽野 (あさじの)という所に着きました。ここので少し寄り道。この浅芽野地区にはかつて陸軍航空隊の基地があったとかで、基地の掩体壕が残っているとのことなのでそれを探しに来たのです。

 ホテルのチェックアウト時、フロント係に人に尋ねると、廃止された旧天北線から基地に向かう引き込み線跡が残っているとのこと。それと目印となる場所を教えてもらっていました。R238右側に見える農場と『飛行場前』バス停が目印。左折する場所はすぐに分かり、ここでR238から離れて脇道に入ります。すぐに廃止された旧天北線飛行場前駅跡を通り過ぎます。駅はプラットフォームだけが残っています。立派な駅ではなく臨時駅のような駅でした。

【写真】飛行場前駅跡。ホームが残っています。線路跡はサイクリングロードになっています。

 小学生の頃(鉄分の多い頃)、周囲に飛行場(空港)のない場所に『飛行場前』という駅名があっ

たので不思議に思っていました。1945年(昭20年)8月まで陸軍飛行場があったという経緯で駅名がついたということなのでしょう。調べてみるとなるほどなと納得しました。なお、天北線跡はサイクリングロードとして整備されていますが、熊が出没したとかで通行止めになっていました。

 さて掩体壕を探して道を進み出します。浅芽野の掩体壕は、計根別のようなコンクリート製の立派な掩体壕ではなく、標津のような無蓋掩体壕があったとのこと。こんもりした盛土があればそれが掩体壕なのだそうです。とりあえずすぐに旧引き込み線の橋脚と営門の門柱らしき遺構を発見しました。やたら石の多いコンクリなので、あの時代のものであることが分かります。

 この先にあるのだろうかと車を走らせます。しかし道路右側(北方向)には広野と林があるだけで、盛土などは見あたりません。気がつくと先の集落内に入りました。別の道にも入り辺り一帯をウロウロしますが、無蓋掩体壕らしきものは見つかりません。

【写真】探している最中に見つけた「牛横断注意」。結局、掩体壕は見つからず・・・(´・ω・`)ショボーン

 飛行場前駅近くから分岐する小道に入ると見えるという話を聞いたので、R238分岐点まで戻り、ここでKSRUを降ろして調査をすることにしました。@嫁はここでしばらく待ってもらいます。KSRUを降ろすと小雨が降り出したので、雨具を付けハードケースは付けないで走り出します。

 駅近くから分岐するダートの小道に入ります。しかし草が生い茂っており、10mほど進んだ所で進めなくなってしまいました。止む得ず引き返します。で、KSRUで周囲一帯をウロウロして探しますが、見つかりません。近くの工事現場にいた作業員に尋ねても、「分からない」という返事が返ってくるだけでした。分岐点近くでゲートボールをプレイしていた地元のおばあさんに聞いてみても、飛行場があったことは覚えていても掩体壕の場所については分からないとのこと。打つ手無し。

 時間の都合で探索を諦めます。5月か6月頃に来ないと道が走れないようです。引き込み線跡と営門らしき門柱の写真を撮影したことだけでもヨシとしましょう。

>>浅茅野飛行場の記事を作成しているときに、全く違う場所を探し回っていたことに気が付きました・・・。そりゃ見つからないわなぁ〜 (;´∀`)

●5年ぶりの宗谷岬

 KSRUを積み込むのも面倒だったので、そのままR238を走ることにしました。走り出してほどなくすると小雨が本降りになってしまいました。「雨の北海道は雨の日にしか走れない 」と開き直って走り続けます。猿払を越えて知来別付近までくると雨はやみました。稚内市に入り東浦付近にまで来ると、曇っているだけという天候になりました。どうやら雨なのは浜頓別〜猿払の間だけのようでした。

 峰岡を過ぎて丘陵地帯のアップダウンを進んで行きます。バイクで走ると気持ちの良い区間です。やがて珊内の町に入ります。宗谷岬までもうすぐです。正午頃、日本本土最北端の宗谷岬に到着しました。

【写真】曇り空の下、KSRUでR238を北上します。(宗谷岬→浜頓別方向を撮影)

 1995年(平7年)9月末に初めて来て、その後2000年(平12年)9月に来て以来なので、5年ぶりの訪問です。2000年の時は泊まった宿の車に便乗させてもらったので、バイクで来たのは実に10年ぶりということになります。それにしても、まさか宗谷岬にKSRUで来るとは思いもしま

せんでした。あ、そういやZRX1100で訪れていない・・・。(´・ω・`)・・・

 私らとほぼ同じ頃にシェルパに荷物を満載してタンデムツーリングしている夫婦が到着しました。年の頃だと30歳後半ぐらい。私らとほぼ同じ年頃です。ここはライダー同士で挨拶を交わします。すると私と入れ替わりに出発していったライダーが、ポーチを落として行きました。追いかける間もなく姿を消した関東ナンバーのライダーさん。気づいて取りに戻ってくるだろうと、目立つ場所に置いて最北端の碑に向かいます。

 最北端の碑周辺は観光客で混雑していました。宗谷岬一番の観光名所なので、訪れた観光客はここを目指しますからね。

一組の若夫婦が記念撮影していたのでシャッターを押してあげることにしました。この夫婦が『北』の格好でポーズを決めたので、それを真似して私達もタンデムライダー夫婦も同じ格好をして撮影してもらいました。(;´∀`)

●宗谷岬

 タンデムライダー夫婦は、これから日本海側を南下していくとのこと。今日は兜沼のキャンプ場で泊まるとのこと。挨拶して見送ります。お気を付けて。

 タンデムライダーを見送ってから丘陵にある旧帝国海軍の監視所に上ります。宗谷海峡を行き来するロシア船を監視するために建てられた監視所です。晴れていれば、ここからサハリン(樺太)の島影が見えるのですが、残念ながら今日は曇っており島影は見えませんでした。 

土産物屋で最北端到達証明書と記念の旗を購入して駐車場に戻ります。相変わらず観光客が多い碑周辺でしたが、一瞬だけ人影が無くなったので、そのわずかな間に最北端の碑をバックにしてKSRUを撮影します。

 ところで最北端の碑の近くには、『宗谷岬の歌の碑』が建立されていました。スピーカー内蔵でエンドレスに曲が流れています。以前は近くの土産物屋の軒先にあったスピーカーから延々と流れていたのですが、それが無くなり静かになったと聞いていたら、歌の碑が出来たということです。情緒も何もあったもんじゃない。宗谷岬も騒がしい岬となってしましまったのが残念です。_| ̄|○

【写真】KSRUで宗谷岬到着。旗つけて記念撮影。

●初めて見た光景

 空を見ると雨雲が流れてきました。天気が崩れそうな気配です。時間的にもここが限界だろうと、KSRUをスパイクに積み込みます。これでKSRUの北海道走行は終了です。あとはスパイクで移動となります。さて、落とし物のポーチですが、KSRUを積んでいる時に気づいたライダーが取りに戻ってきました。ホッと一安心です。

 13時半頃に宗谷岬を出発します。稚内に向かって走りますが、途中は所々雨というおかしな天気でした。20分ほどで稚内市街に到着。市街は曇りという天気。市街に入ると交通量は突然増えます。

 交通量の多いR40を稚内駅に向かって走り出すと、前を走る車がおかしいことに気がつきました。GSの給油ホースを引きずって走っているのです。Σ(゚Д゚;) アクセントとして造花が一輪ささっています。給油口にホースをノズルを突き刺したまま発進して、そのままホースを引きちぎって来たのでしょう。引きちぎられたGSはとんだ災難で、今頃大騒ぎでしょう。デジカメを用意して撮影しようとしましたが、ドライバーが気づいて路肩に車を止めてしまったため写真は撮れずじまい。給油ホースを入れたまま発進するという話はたまに聞きますが、現物を見たのは初めてでした。実際にいるのですな。

●最北端の駅

 稚内駅近くの無料駐車場に車を止めて稚内駅に向かいますj。稚内駅には1995年(平7年)9月末のツーリングで立ち寄ってただけで以来訪れていないので、実に10年ぶりの訪問になります。この10年の間だけでも、稚内に至る宗谷本線の車両や列車は大きく変わりましたが、この駅舎は全く変わっていません。

 入場券を買ってホームに入ります。10年前は駅舎だけを撮影しただけで駅構内には入っていないので、意外にも今回が初めての駅構内入場となりました。ホームは島式の1面2線の構造。昔の構内はもっと広く、駐車場となっている所や裏手の土地も貨物ヤードだったようです。今はホームとほんの少しの引き揚げ線があるだけの小さな 終着駅となっています。鉄道全盛時の要衝だった頃の面影はありません。

 到着する列車があれば良かったのですが、時刻表を見ると2時間ほどありません。さすがに2時間ぐらい待つわけには いかないので諦めます。ホームをウロウロします。ホームの屋根を支える

支柱には東京駅など主要駅からの距離が記されています。ホーム先端に記念碑みたいなのがあってここで記念撮影。日本最北端の車止めを撮影してから駅から出て車に戻りました。

【写真】ホームの北端にあった最北端のモニュメント。最北端の車止めもありました。

●昼食in稚内

 稚内駅を出てから防波堤ドームに移動します。 終戦まで稚内と樺太を結 ぶ稚泊航路の乗り換え駅だった場所です。終戦後、南樺太は日本から離れたため航路は消滅してしまい、駅の存在意義はなくなり廃駅となりました。埠頭は利尻島・礼文島へのフェリーとサハリンに向かう国際フェリーのターミナルとして残っています。

【写真】 防波堤ドームの中。長いですね。てっきり鉄道のホームだと思っていました。(^^;)

 旧駅に通じる道路と鉄路を波から守るために建設されたのが「防波堤ドーム」という愛称で親しまれてい る稚内港北防波堤です。高さ14m、柱間6mの円柱を72本並べた長さ427mの防波

堤で、1936年(昭11年)に完成しました。チャリダーや野宿ライダーがテントを張る場所として有名な所でしたが、最近はどうなのでしょうか。訪れた時はテントを張っている人は見かけませんでした。

 ドームでは何やらイベントがあったので混雑していました。なので早々に出発。ツーリングマップルに「わっかないラーメン」というラーメン屋があるというので店に向かいます。稚内の市街地を走って店に到着。遅めの昼食となります。@管理人は「サハリンラーメン」を注文。”サハリン”だけに日露の国旗をあしらった蒲鉾がのっている。麺は笹麺で意外とコシがあります。醤油系の汁共々おいしく頂きました。(@管理人に食べ物の味を表現する能力はありません・・・) @嫁は五目ラーメンを注文しますが、

余りに量が多いために最後は@管理人が食べます。おかげでお腹一杯となり店を出ました。しばらくラーメンはお腹一杯です。

 店を出て稚内から離れたのは15時半頃。予定では14時には出るつもりでしたが、なんだかんだと遅れて行きます。いつもこんなものです。(;´∀`)

●日本海側は晴れ

 稚内からR40を南に向かいます。町を抜けるとすぐに無人の原野の中を走るようになります。道北らしい光景です。このままR40を走り続けるのも面白くないので、途中で道道に入って兜沼経由でサロベツ原野に向かいます。

 この頃になると雲は去って晴れてきました。兜沼周辺は丘陵地帯でアップダウンを繰り返す道を進みます。一帯は酪農地帯で、広大な牧場が広がっていました。青空と酪農牧場という、道東のような光景が広がります。自然の地形そのままのほとんど手を加えていない風景が広がります。あ〜、癒される。出来ればバイクで

走りたい場所ですが、時間の都合でそうも行かずスパイクで走り抜けました。【写真】 兜沼周辺の酪農地帯の風景。

 r444 (道道稚咲内豊富線)に出た後は西に向かいr106(道道稚内手塩線)にスイッチします。ここからはひたすらr106を日本海沿いに南下して行きます。原野の中をひた走るr106は北海道らしい光景の中を走る道として北海道ツーリングに欠かせないコースの一つです。@管理人にとっても10年ぶりの走行となります。

 やがて北緯45度線通過点に到着します。10年前は原野パーキングにあった記念碑は北緯45度通過点に移設されていました。他の観光客が去るまで待って記念撮影し、引き続きr106を南下し続けます。原野パーキングでトイレ休憩。パーキングの前には巨大なプロペラを持つ風力発電所が出来ていました。ずらりと並んだ風車は圧巻でした。

上の風景写真を撮影してきたときに近寄ってきた

犬。近くの農場の犬で、人なつこい犬でした。

r106沿いにも北緯45度線通過のモニュメントが

ありました。

ずらりと並んだ風力発電の風車。圧巻です。グル

グル回っていました。

●高速経由小樽行き

 r106からR232に入ったのは17時頃でした。引き続き日本海沿いをひたすら走り続けます。町と町との間の距離が長く、また見通しの良い区間が長いためにハイペースで走ることが出来る道です。遅い車が居ましたが適当な場所で抜いて先を進みます。ただ大型車の通行が多いために路面に轍が出来おり、時々ハンドルが取られるのには困りました。バイクで走ると少し嫌な道ですね。

 17時45分頃に羽幌の町を通過します。この付近まで周囲はすっかり暗くなりました。町を抜けると真っ暗な広野をひた走ります。頼りは車のライトのみ。ただ対向車も多く、遅い車を先頭に車列などが出来ていたりするので孤独感はありませんでした。

 18時30分過ぎに留萌市市街に到着。稚内から3時間ほどで到着です。留萌からR231で石狩に出ようかと考えましたが、距離的には最短となるR231ルートよりは高速道路利用の方が早く移動出来ると判断。留萌からR233を走って深川方面に移動します。

 交通量は多いのですが車の流れは良く止まることなく移動。20分ほどで深川留萌自動車道の北竜ひまわりICに到着します。本当にあっと言う間でした。ここから深川西ICまでは無料開放されているのですが、走る車は少なく快走できました。19時15分頃に道央道に入り、19時半頃に砂川SAに到着。なんと原野パーキング以来久々の休憩です。ここで軽食を食べて給油。引き続き

道央道を走ります。札幌(料)通過は20時頃。札幌付近は局地的に雨が降っているというややこしい天気でしたが、札樽道を小樽に向かうにつれて雨は上がります。

 20時半頃、小樽市街に到着。稚内から約5時間半で到着。早くなったものです。これで北海道での移動はほぼ終了です。

【写真】もうすぐ日没。留萌に向けてR232を走り続けます。

●フェリー乗船

 小樽到着後、以前利用したことのある回転寿司屋で夕食とします。回転寿司ですが、さすがに小樽だけあってネタは新鮮でした。回転寿司屋から小樽FTへはすぐでした。22時前に小樽FTに到着。ここ数年は苫小牧東FTから敦賀に向かっていたので、

小樽FTに来たのは5年ぶりです。

 北海道ツーリングの起終点は昔も今も小樽なのでしょうか。荷物満載のバイクが続々と集まってきます。その数およそ30台弱。楽しんだことでしょう。ライダーさん達はみんな良い表情をしていました。いいなぁ。今度はZRX1100に乗ってソロツーリングで来たいなぁ・・・。まぁ、KSRUを積んで車で来れるだけでも幸せなのですけどね。

 23時前に同乗者である@嫁が先に乗船。車の乗船はバイクの後、23時15分頃からでした。帰りのフェリーは舞鶴行きのフェリー『はなます』。30ノットで航行出来る新造船で、小樽〜舞鶴間を19時間で結んでいます。はい、24時間を切りました。思えば初北海道ツーリングの1995年頃は30時間ほどかかっていたはずです。その頃を思うと、ほんと北海道は近くなったものです。

 新造船だけあって車両甲板もバイクと車・トラックの駐車スペースが分離されていました。バイクは専用区画に停めるようになっていました。あぶれたバイクがあれば車両甲板の隅に停められるようです。出入りする車やトラックに注意しながら荷下ろしなどをしなくて済むということです。さす

がは新造船です。

 23時50分、フェリーは小樽FTを出港します。出港の瞬間はいつも寂しいものです。祭りが終わった時のような気持ちになります。さて帰路も1等船室を利用します。往路は和室だったのですが、帰路は洋室を利用します。ユニットバスがないぐらいで、客室の作りは最近のビジネスホテル並の作りとなっています。

 疲れているので船内の散策は明日にすることにし、一段落してから風呂に入ります。部屋に戻るとベットに直行。そのまま寝ました。歳ですな・・・。

【写真】舞鶴行きは『はなます』でした。

2005年9月24日(土)

●フェリーの旅

 さすがに昨日の運転がこたえたのか、午前9時半頃まで熟睡していました。起きてからウロウロし始めます。まずは10時半から行われる『タップダンスショー』を観に行きます。長い航海を退屈させないために、歌手や芸人さんの公演を行うことがあります。太平洋フェリーで公演を観たことがありますが、新日本海フェリーでこういうイベントを開催するとは知りませんでした。往路のフェリーではなかったので小樽・舞鶴便だけの開催なのか、期間限定の開催なのかは分かりませんが、新日本海フェリーも

いろいろと楽しませてくれるようになったものです。  

 さて、公演される方は日本ではかなり有名なタップダンサーだそうです。ジャグリングしながらタップダンスが出来るのはこの方だけだとか。@管理人が生のタップダンスを観るのは今回が初めて。意外にタップの音は大きいのですね。ジャグリングやいろんなことをしながら、いろんなダンスを披露してれたので実に楽しい時間を過ごすことができました。(゚∀゚)

 その後、船内をウロウロします。バリアフリーが徹底されており、廊下には段差はありません。客室のドアがずらりと並ぶ通路を歩いていると、どこかのホテルにいるような錯覚に陥ります。娯楽施設も充実しており、さすがは『Ship of the year』を受賞した船だけのことはあります。

 ひととおりウロウロするとやることがありません。部屋に戻ると寝たりテレビを観たりしながら時間を潰します。往路はフェリーを下りてからのコースをあれこれ考えたりして時間を潰せるのですが、復路はフェリーを下りると自宅に直行するのみ。あれこれ考えることがないので、時間をもてあそびます。

 24日20時半頃、フェリーは舞鶴FTに到着。本当に約19時間で到着しました。ホント早くなりました。

【写真】「タップダンスショー」で楽しいひとときを過ごします。

●旅の終わり

 下船は同乗者も一緒に車両甲板に下りることが出来ます。甲板に下りてKSRUの固定を確認して乗車。しかしすぐに下船はできず10分ほど待ちます。20時40分頃にフェリーから下りて本州の地に降り立ちました。ちらりと見たところ、バイクは結構な数が載っていました。専用区画には治まりきらず、停めることができないバイクは車両スペースの隅の方に停めてありました。

専用区画が出来ても、バイクは車の後に下船というのは変わりなく、パッキングにいそしむライダーの姿が見えました。以前はあちら側にいたんだよなぁ・・・。(´・ω・`)ショボーン

 駐車エリアに移動して固定を再確認。FTでのスパイクを撮影してから舞鶴FTを出発します。行き先はもちろん大阪市内の自宅です。車体がかなり汚れていたのでコイン洗車場と夕食を食べるためのレストランを探しながら舞鶴市街を走ります。同じフェリーで到着したのでしょう。荷物満載でホクレンの旗を立てたバイクを数台見かけました。【写真】 舞鶴FTに撮影。あとは家に帰るだけ・・・。

 さて舞鶴市街を走りますが、コイン洗車場はありません。またレストランも営業しているのはファミレスばかりで、どうも入る気になれません。R27を走っていたのですが、気がつくと舞鶴市街から外れてしまいました。そのままR27を南下して綾部に向かいます。

 しかし綾部市街も同じような感じだったので、綾部ICから舞鶴若狭道に入り大阪に向かうことにしました。西紀SAで休憩。レストランはもちろんのこと軽食コーナーも閉店していたので、夕食は西宮名塩SAまで我慢します。22時半頃に西宮名塩SAに到着。ここで遅い夕食です。

 この時間帯の中国道(宝塚西TN付近)は渋滞もなくスイスイと流れます。名塩SAからしばらく走った中国池田ICで下ります。

府道を少し走って阪神高速へスイッチ。自宅近くの出口で下りて、自宅マンションに到着したのは23時半頃でした。荷物を降ろしてガレージに移動。夜が遅いのでKSRUは積んだままです。明日降ろします。

 これで8日に及ぶドライブ&ツーリングは終わりました。期間中のスパイクの走行距離は2047km(うち本州内は350km)、KSRUは442km(全て北海道を走行)。なんだかんだでKSRUも北海道を440kmほど走っています。お疲れ様でした。

 さて、今年もどうにかして北海道に行くことが出来ました。できれば来年はZRX1100で行きたいものですが、どうなることでしょう。何度も書いていますが、どういう形であれ出かけることが出来るのは、まだ幸せな方です。@嫁の理解に感謝。m(_ _)m

とりあえず、連続渡道記録は『8』に延ばしました。

【北海道2005 終わり】

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